荒れ果てた畑に実る豊かな収穫
天辰保文

 今日も、昨日と同じように暑い。青く広がった空に、くっきりと白い雲が浮かび、夏が盛りに入ったことを教えている。気温は32度を指している。仕事部屋には風がほとんど通らないので、熱気がたまって辛いが、居間を通り抜けてベランダに立つと心地の良い風を感じる。そして、そこから見える海では、水面がキラキラと光っている。そんな昼下がりに、『THE SUN』を聴いた。

 アコースティック・ギターが鳴り響き、肩をほぐすように幕をあける。The Hobo King Bandの演奏には軽やかな弾力があり、佐野元春の歌声も、勢い込んだり、逸り立ったりしたところがなく、その演奏に自然に乗っていくような歌いっぷりだ。深刻ぶったり、苛立った気配もない。むしろ、友人に語りかけるような親密な響きさえ感じられる。自然で親密な、というその印象は、アルバムを聴き終えてからも変わらなかった。バンドの仲間たちが久しぶりに集まり、歌い、演奏し、それをそのままレコーディングしていったような趣さえある。少なくとも、各自が思い思いにスタジオに立ち寄り、演奏し、それをつぎはぎしていく作業からは生まれそうもない、これはそういう音楽だ。

 極端に言えば、歌われるべき歌があり、それを歌うシンガーがいる。ギターやベースといった楽器があり、それを演奏するミュージシャンたちがいる。それだけである。ただ、それを信頼という糸が結びつけている。つまりここには、音楽という行為がとても強く主張されている。ぼくが、このアルバムを聴いて真っ先に感じたのは、そのことだった。そうでなければ、これほど歌にも演奏にも、自然な豊かさというか、立体的な肉感というか、自由な想像力というか、それらを生みだせるようなことはできないはずだ、と。 

 だからと言って、乱雑に作られているかと言えば、そういうわけでもない。もともと、The Hobo King Bandは、腕達者な人たちばかりだ。しかも、彼らの演奏には、優れた技術に加えて、音楽に対する深い愛情や真摯な志しがいつも注がれていて、そこがぼくの好きなところでもある。そんな彼らが、日頃の鍛錬の成果を惜しまず、細心の注意を払いながら演奏している。なんだか、言っていることが矛盾しているようだが、その矛盾がここでの演奏にふくよかな弾力をもたらしているのである。佐野元春の歌いっぷりにしても、それと同じことが言える。聴き手に、そして自分にも答えを急かさないような、気の置けない口調なのに、言葉は丁寧に扱われている。その結果、歌たちは彼らの手元から、閉ざされたスタジオから、自由に飛び出していく。

 そして、遠くて長い道のりを旅してきたような懐かしさをともないながら、ぼくらのもとに届いてくる。旅の途中では、嵐に見舞われることもあっただろうし、風雨を避けて身体を癒すようなこともあったに違いない。夏の熱気を吸い込んだ草木に寝ころび、安らぐひとときもあったかもしれない。冬の大地を、深い雪に足を取られながら一歩一歩進むしかない過酷なときもあったかもしれない。見知らぬ街で、仲間たちと騒ぎあかすという馬鹿げた夜もあれば、仲間たちにはぐれ、孤独な闇に息を潜めたときがあったかもしれない。家族が待つ故郷を思い、知らずに涙がでるようなときもあったかもしれない。世の不条理に怒りが込み上げる瞬間だってあっただろう。その怒りをこぶしにためて、闘いに駆られるときだって、きっとあったはずだ。

 しかし、歌たちは、それらの困難や試練を、確かにくぐり抜けてきたのだ。それどころか、明日をも含んだ爽やかな力を身につけ、いま正にここにいるという実感を抱かせてくれている。その実感に、ぼくは、荒れ果てた畑に実る豊かな収穫を前にしたような、ちょっといい気分を味わっている。さて、理不尽で傲慢なこの時代に、これらの実りをどれほどの友人たちと分かちあおうか、と。そして、その収穫を、敢えて言葉に置き換えるとすれば、おそらくぼくには、ロックの最良の形のひとつ、としか思い当たらないだろう。