ひとりのファンからのいくつかの断想
原田高裕
ロックスターは、これまで雲の上の存在だった。そしてロックスターから発せられる言葉に一喜一憂し、バンドの奏でるビートや和音に身体を揺さぶる。そして、たまには心底自分の魂をも揺さぶられる。ロックを大切に聴く人間とは、だいたいそんなもんだ。私は(途中、2〜3年“反抗”していた時期はあったが)佐野元春を18年近く聴いてきている。そして、これまでの佐野元春は自分にとってまぎれもなくロックスターだった。「等身大で」「身近な」ロックスターは私にとって存在しなかった。すぐそばで語りかけてくれるような存在のミュージシャン。それは私にとってロックスターじゃない。ただのシンガーでしかなかった。見張り塔から自分を眺めていてくれる存在、それこそロックスターであり、そして憧れていた。
オール・アロング・ザ・ウォッチタワー
この18年、自分の身の回りはどうなったのだろう。残酷な闇がヒタヒタと忍び寄っているということへの畏れ。最近の新聞の一面はこんな感じだ。《中絶胎児を「一般ごみ」/手足切断して捨てる/違法廃棄続く》。この世の中は、昔からそもそも残酷なものだったのか。ただ私たちが気付かずに暮らしていただけで。このまま「この世の終わり」という究極の最終ニュースに向かって、世界は邁進しているのだろうか。
「お昼のニュースです。この世界は崩壊しました。それでは中継です」
残酷さの極北であるニュース。しかし残念ながらこのニュースは絶対に実現されることはない。中継も見ることはできない。キャスターもリポーターも、そして見聞きする僕たちも、その時は生きちゃいないから。
ウェイティング・フォー・ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド
「いまの世界が、こんな風になるとは思わなかった」。この根源的な問いかけが、ニューアルバム『THE
SUN』における佐野元春のクリエイティヴィティの源泉になったようだ。「どうしてこうなったんだ」という単純且つ根深い疑問・怒り。そこから派生する諦め・失望・無気力感・倦怠感。ソングライティングに意識的なミュージシャンであれば、この状況になんとか歯向かっていこうといったモチベーションが当然あったはずだ。
グッバイ・クルーエル・ワールド
造り手=クリエイターだけではなく、聴き手=リスナーにとっても同じような気運があったと思う。「どうしてこんなロクでもない光景にまみれて生活しなくてはいけないんだろう」と。ロックを聴く、ポップを聴く。そして、こう問い直す。「この曲(そして、ミュージシャン)は、はたして今の自分に通用するか」。すべてのリスナーが年がら年中、こんなふうにロック音楽を聴いているわけではないだろう。厳密に一曲一曲を吟味・評価しているわけではないだろう。
だけど、これだけは言える。“あの日”以降、自分の中でどうでもいい曲はもっとどうでもよくなり、つまらないミュージシャンはさらにつまらなくなっていった。“あの日”は、音楽リスナーとしての自分にとって決定的な分水嶺となった。元春がソングライティングに納得がいかなくなったように、リスナーである私も大好きな曲を聴いても納得いかない時期があった。そして周りでは相も変わらず浪費される、“歌もどき”“メッセージもどき”達の能天気な饗宴。「果たして、自分はどこに逃げ込めばいいのか」と悶々となる。夜明け前にチェット・ベイカーの後期のアルバムを聴きながら。嘘だと言われるかもしれないが、本当にそんな夜もあった。
レッツ・ゲット・ロスト
そして、2004年の夏。佐野元春のニューアルバム『THE
SUN』が、私の手元に届いた。
「我住む地を想う」。このアフォリズムやアートワーク、そしてそのものズバリ「国のための準備」というタイトルをみると、佐野元春は『THE
SUN』にて日本の復権=ナショナリズムの高揚を望んでいるのか?陽の出づる国=日本を憂いているのか?いや、逆に佐野元春は『THE
SUN』にて日本といった国家・国民性に縛られることのない、人間個人の喜怒哀楽を大らかに表現している。誤解を恐れずにいうと、もし元春がアメリカという“地”に生まれていたら、アメリカという“地”のイディオムを使って、アメリカという“地”に暮らす人々の喜怒哀楽を歌っていただろう。『THE
SUN』は、「我住む国を想う」のではなく、「我住む地に暮らす人々を想う」アルバムなのだ。ここだけは、はっきりと釘をさしておきたい。ベネディクト・アンダーソンによる以下の指摘を付記しておく。
《国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同士愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。…なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか》『想像の共同体』より
アー・ユー・レディ・フォー・ザ・カントリー?
《あぁ、世界劇場へいこう。たとえ舞台が混乱し、とりとめなく見えたとしてもそれを信じてはいけない。世界劇場の観客席では、だれもが巧みに支配されたがっている。それをよく知っていることだけが、おまえの唯一の誇りなんだ》「世界劇場」佐野元春『in
motion 2003-増幅』より
『THE SUN』をもっと深く、もっと突っ込んだところで共鳴したいときに、この『in
motion 2003-増幅』は欠かせない。『THE
SUN』には何人かの登場人物がいる。月夜を往く二人、世界の終わりに夢見る恋人たち、一日中働きづめのやつ、ありふれた男、レイナ…。そんな歌の中の登場人物たちがみている情景や光景、そして暮らしている世界。これが『in
motion 2003』の世界観とスムースにリンクする。レイナは「ベルネーズソース!」と言いながら台所に駆け込んでいるかもしれない。ありふれた男は、退屈なハープを披露する絶対的存在と「正しい理由の向こうにある自由」をかけて格闘しているかもしれない。月夜を往く二人は、世界劇場の観客席にいるかもしれない。
《読書には時機がある。その本について、その人にとって、本当にジャストミートする人生の時があるということは本当だとつくづく思います》。大江健三郎の文学論からの引用です(『文学再入門』日本放送出版協会)。この引用の「読書」や「本」という単語を「ロックを聴くということ」「ロックアルバム」と置き換えても通用するのではないか。ここ最近『THE
SUN』を繰り返し繰り返し聴いている。しばらく時が経ってみないとわかりませんが、32年間生きてきたこのタイミングで『THE
SUN』を聴けたということは、自分にとってジャストミートしているとの予感はビシビシと感じている。この身勝手極まりない、思い込みに近いこの感覚を持てるということが、同時代のミュージシャンを聴くということの醍醐味です。
そして大江は「信仰を持たない者の祈り」という表現で、祈る力ということにも言及してます(『人生の習慣』岩波書店)。「特定の神」にむけて捧げる祈りではなく、祈るという行為そのものを通じて人は困難を乗り越えていくことができる、と。《そうして信仰を持たないでいても、ある宗教的なものといいますか、祈りのようなものを自分が持っていると感じる時が、人生のいろいろな局面であったのです。やはり信仰の光のようなものがあって、向こうからの光がこちらに届いたことがあると私は思っているのです》。
『THE SUN』には祈ることの重要さ、そして祈りを通じた希求に希望を見つけていくといったシーンが散在し、そして顕在している。そして、ラストナンバーの「太陽」。佐野元春が、かつてここまで祈りの表現をしたであろうか。ここまでの希求を歌ったであろうか。そして、「God
少しだけ君は臆病になって God 少しだけ僕も臆病になって」といった歌詞に、今回は心底自分の魂を揺さぶられた。祈ることは信仰を持った人間の特権ではない。困難をなんとか生き抜いていこうという人間すべてに与えられた最も人間らしい行為なのだ。夢を見る力をもっと。ここにいる力をもっと。風に舞う力をもっと。このような「魂のこと」を考えることも、宗教や信仰者だけの仕事ではない。人間としての仕事なのだ。私はそう思う。《魂について本当のことを何か教えてくれる人がいたら、自分はその人についていくだろうと思ったわけです。ついて行かなければいけない、と。》(『人生の習慣』より)。
当初「sail on」というコードネームを持った「君の魂
大事な魂」。リードシングルとしてリリースされた当時は、「あー、ポップな曲だなぁ。今度のアルバムはかなりポップになるかなぁ」といったくらいの感想しか持てなかった。しかし『THE
SUN』アルバム全体の中で聴いて、ガラッと印象が変わってきている。そして、自分の心にジンジンと沁み込んできているのが「君の魂
大事な魂」だ。ただのポップナンバーじゃない。そして『THE
SUN』も、ただのポップ/ロックアルバムではない。「祈るということ・魂のこと」ためのポップ/ロック作品だ。これまでも「祈るということ・魂のこと」をテーマにしたアルバムがなかったわけではないだろう。しかし大抵、ダークでしょっぱい作品が多かったように思う。ジョン・レノンのファーストソロアルバム(その名も、ズバリ『ジョンの魂』)も、どちらかというとモノトーン的で淡々としていた。しかし、『THE
SUN』は違うぜ。「祈るということ・魂のこと」を考えるきっかけを、超一級バリバリのロックサウンドとカラフルに彩られたストーリーテリングをもって与えてくれる。こんなアルバム、いままであっただろうか。
そして今、どこか臆病だった自分がだんだんとゴキゲンになってきていることを実感している。錆びてる心に火がついたことを実感できる。見張り塔からではなく、僕と同じ地平・路上にて高らかに鳴り響く『THE
SUN』を聴くことができたから。自分にとって「等身大のロックスター」。これまであり得なかった存在だが、これがいまの私にとっての佐野元春だ。
答えはまだなくていい 錆びている心に火をつけて 我が道を行け
いつかこの世界が変わるその日まで 繰り返す言葉は I love you
元春からのメッセージを、元春とファンのみんなでこれからシェアできれば、こんなに誇らしいことはない。
*この文章は、MWSでのファン・コミュニティ「カフェ・ボヘミア」にてキーワード登録した、「『THE SUN』を聴いてのいくつかの断想」を加筆・修正したものです。 |