俳句「THE SUN」
狼と踊る男/柴口勲

  新世紀から丸3年以上経過させたアルバムの経由について、「9.11」があり、様々な意味合いで「老い」があったと云う。それに加えて、僕等は人生の大小のトラブルを乗り越えての到達だと知っている。それは近からず遠からず僕等も同様にモガキ、過ごしていたからだ。佐野が「街路」に還って来たと云うよりも「家」に帰って来たと云う感がする。彼は僕等の家の居間で僕等と同じテーブルについて僕等と同じ目の高さで、ぶちまけている。赤裸々に。誠実に、切実に。が、それでいて何とも清々しいではないか。

 僕は『THESUN』を総じて俳句のようだと感じた。佐野が鎌倉で産み落としている『Inmotion』はポエムリーディングと云う柱をリズムとサウンドで誘発させた芸術だが、彼はその真逆の地にメロディとサウンドをポエトリーと結実させた文学を生誕させた。特に末尾の『太陽』は削ぎ落とされた言葉、放置させた行間、その歌い方も含め、明確な余白に無造作に詠わせた俳句的側面を備え持つ曲ではないだろうか?…「夢を見る力が足りない、もっとそれが欲しい。僕等の目の前にある現実は冷めたお茶のようで、子供達は核を掴もうとせずそこから零れる幻に踊らされ、けれどあの丘の上に今もきっと楽園があって、こうしている今も地球は傷みながらプレスリーの“冷たくしないで”を歌っている。それでも僕が(君が)夢見る事は誰にも止められない、止められないんだよ」…混沌としたカオスの中で、頭上に神(太陽)を捉えながら佐野は詠う。それをまるで俳句のように、だ。

 同曲にはこんなクレジットもある「※制作者の意図により、歌われている歌詞と表記されいる歌詞が違う場所があります」…そこに込められた佐野の想いは何故こんなに僕等に聴こえて来るのか?佐野が投函した宛先不明の便りが何故こんなに意図も容易く届けられるのだろう?…『太陽』の後半にしても明らかに、佐野は<何かを呟いている>。人の耳で聴き取れない周波数で、加えて力強い演奏に巧みに紛れ込ませて。にも関わらずそれは聴こえて来るのだ。一握りの人種の、けれどその全ての胸に。

 想いを言葉に載せて伝える過程に於いて僕はもうすっかり諦めていた。想いの「高さ」なら言葉に変換出来なくもなかった。が、想いの「深さ」は言葉には託せないと。悲しみ、喜び、夢、迷い、憎しみ、愛…たとえその高さは言葉に出来ても、その深さを委ねられる術(言葉)を僕は知らなかった。それはこのアルバムに出逢うまではの話だ