『 THE SUN 』を浴びながら
ささやき鳥

体を使った腰痛治療を施しながら初老の彼はこう言った。
「最初は患者さんの体を診てそれに合う方法を頭で考えていた。でもこの頃は考えなくてもその人の体を触ると自然に自分の体がその人の状態に合う動きを勝手にしている。」 数回の転職、技を身につけるための苦労、家族の支えについても定まった優しい眼差しで語ってくれた。

世界は美しく回っている。
すべての生き物が複雑に絡まり合いながら互いの連鎖を黙々と健やかに続けている。その回転の正しさが故に、地上には(地下にも)多くの種が集い豊かさを増しつつ形容しようのないこの愛おしい星の景色を創っている。

その健全なサイクルを唯一壊す存在がある。私たち人間だ。人は何者にも食べられず何者をも無下に食べうる。天寿を全うすることの傲慢さをすべてのものからの恩恵として当然のごとく受けている。自らが富み、心地よさを感受し、他のものの意志に左右されることなく可能な限り命を長らえる。これがどんなに身勝手なことであるのか、他のものにいかに寛大に許してもらっていることか・・・その無言の寛さを思えば私たちが他に対して謙虚であるべきなのはしごく当たり前のことだ。そして、このことを忘れた時バランスは崩れねじれた紙はいともたやすくやぶれる。

私たちはやぶれた。やぶれるべくしてやぶれた。

サイクルを作らない私たち。
頂点という名の取り返しのつかない世の果てに辿り着こうとする私たち。木の根もとを見ずに一番上の枝の先端に立つことに目がくらんでいる私たち。そこに誰かが立つたびに枝は折れ誰かが下に落ちる。愚かな私たちはそれでもまだ懲りずにまたその先端に立とうとする。

傲慢に生きている私たちが、その傲慢さを少しでも手放しうる方法はあるのか。

サイクルを作ることだ。
人間だけがそのサイクルから逃れようとはしないことだ。
連鎖の中で食べられることを拒むのだとしたら、自然の中にある他のものと同じく真摯に日々を生き、傲慢さといくらかでも距離を置くことで、せめてサイクルに加わることが出来るのではないか。考えれば先達の多くが成してきていることだ。

傲らず、折れた枝の先端に立つことを目的とせず、自分が手にした役割を続けること。仕事をし、子どもを育て、家族を養う。淡々とそれらをし続けることでのみ見えてくる本当に、本当に大切なものがある。それはごくごく個人的な感覚でのみ捉えられるため、はっきり言葉にして語られることはあまりないが、それが得られた時には他では味わうことの出来ない充足感を手にすることができる。

冒頭の彼の言葉が大きな支えになっている。何十年続けて初めて得られる感覚は一人の人にとって一生に1つのものなのだと思う。彼の場合はその1つを手にすることで、人の苦痛を和らげるために自然と体が動くことにつながっているのだろう。決して偶然ではなく必然だと思われる。そしてその1つは何にでも有効な1つであり、それが手に入りつつある時には人を自ずから謙虚にする1つなのだ。地球、世界、国、個人など様々なレベルで現れる傲慢さに対する賢明で真摯な回答となりうる1つなのだ。

佐野元春の葛藤を遠くから見てきた。

それは図らずも自分自身の個人的なものとも重なった。
 正直もう戻って来れないのではないか、と自分自身についても彼についても思ったことがあった。彼の弱気な言葉を聞いたこともあったし、私自身胸の中で言いたくない言葉をつぶやいた夜もあった。戻れないならどこに行こうか、と今にも消えそうな灯火をたよりに地図を広げたまま夜明けを迎えたこともあった。

彼は、思うように日の射さないトンネルの中でも彼は、ずっと唄を書き、歌い、奏で続けた。絶えずに紡ぎ続けたのだ。それは彼自身がこのアルバムの中で描いた彼や彼女の姿と重なってくる。佐野元春は彼らと同じ人生を生きてはいないけれど、真摯な日々の歩みの中で曲中の登場人物の心が向かいつつある大切な1つを彼もしっかりと胸に抱いているかのようだ。 このアルバムの14の唄を聴くと、この5年間にした彼の経験の深さとそれを今につないだタフさを感じる。それらが音の中から立ち上がり聴く者の胸を強く打つ。

そんな彼が産みの苦しみを越えて紡いだ唄たちは、一度はやぶれた私たちが自分の1つへと向かうための道をつなごうとしてくれる。あの日、共に、また個々にもやぶれた私たち。あの出来事は私たちとその道とを断ち切るものではなかったかもしれない・・・ためらいながらもそう思いたくなるほど彼は誠実で切実だ。

半世紀前に黒人と白人の文化がぶつかり合って生まれ出たロックンロールは潜在的なパワーを持ち、微笑みよりも叫びを、満足よりも渇望を、幸福よりも怒りを、妥協よりも異議申し立てを表すのに適している。成長途上の世代から上の世代や社会に対する反発の道具としては打ってつけだった。それはロックンロールの持つ初期衝動と呼ばれ、いつしか未熟ではなくなっていくミュージシャンたちのやっかいな足かせにもなっていった。継続、成熟、求道などと「青い」ロックンロールとは相容れるものではなく、年々自分の中に降り積もっていく経験との折り合いは誰にもなかなかつけられなかった。

だがそうではなかった、と彼はこのアルバムで高らかに唱っている。人の成熟の先にあるものは微笑みや幸福ばかりではない。「正しく、美しく」あろうとすればするほど個人の心の中で叫びや怒りは実は増すばかりだ。本当の1つに辿り着くためには抗することをやめるわけにはいかない。私たちの足元をおびやかす、日々に横たわる一つひとつの不合理、不条理への抗いは続く。そしてそれは波のように、時に静かにたゆたい時に激しくうねる。

だから佐野の立つ新しい地平の上では「国のための準備」の政治性も「太陽」の神性も同じロックンロールとして成立しているのだ。守るべき家族を持つ男性も、子どもの手を握りしめる女性も、当てのない自分探しを続ける青年も、漠然と日々を生きている人も、このアルバムを聴くことでそれぞれが互いの生活から出てくる想いの中にある無言の抗いを感じとりそこに共感する。彼は一度は崩れた地面から歩を進め、今その新たな地平をしっかり踏みしめている。そこにあるものはもはや「私たち」のロックンロールではなく、「私」にとっての、「あなた」にとってのロックンロールなのだ。

アルバムを最初聴いた時、森の中の泉から止めどなく湧き出してくる清らかな水が、まず両手、そして全身から何かを洗い流してくれた気がした。いまだに手がその冷たさを覚えている。彼の中からあふれ出る創造へ向かう強いベクトルが、私の迷いのいくつかをクリアにしてくれたかのようだった。また、それは日々の海に浮かぶ希望や自由は遠くにではなく目の前にあることにも気づかせてくれた。考えてみれば創造力の中にこそ、希望や自由が満ちている。新しいものを創り出す時には、瞳を上げて何ものにも縛られずにいるのだから・・・。誰の力も借りず自分でそれらを手元に引き寄せる事が出来た時、希望は希望、自由は自由たりえるのだと思う。この後、私は果たしてそれらを自分の手に取ることができるのだろうか。 このアルバムの15曲目は私たち一人ひとりが自分で紡ぎ出し奏でていくのだ。

そして、静かに空をあおぎ見る。

the sun   地上を照らし

the sun  宇宙にめぐる

 
God  夢を見る力をもっと