”VISITOR” はどこにでもいる
田家秀樹名盤と呼ばれるアルバムは、少なくない。例えば、日本語のロックの原点となったはっぴいえんどの「風街ろまん」や、シンガーソングライターという形態を商業的にも認知させた吉田拓郎の「元気です」や荒井由実の「ひこうき雲」など、そこからシーンが変わる分岐点となったアルバムが即座に浮かぶだろう。でも、”時代性”という意味では、佐野元春の「VISITORS」を凌ぐ衝撃は、思い当たらない。
音楽に限らず、歴史は一人の力で変わるわけではない。報われることもない名もなき人々の血と汗と涙がいつしかうねりのようになって動き始める。でも、時には、後先も顧みない若者の無謀な突出した行為が、誰も触れたことのない新しい扉を開けてしまうこともある。アルバム「VISITORS」は、まさにそんな一枚だった。
発売は1984年。制作されたのは83年から84年にかけてだ。舞台となったのはニューヨーク、マンハッタン。まだインターネットはもちろん携帯もない。それまでアンカレッジを経由していた日本からの直行便が、ようやく無着陸で飛べるようになった時代。佐野元春はデビューして丸3年だった。
80年代は彼のデビューとともに幕を開けた。長髪・反体制の代名詞だった70年代のロックとは違う都会的で洗練されたロックンロール。歌詞に鏤められた体言止めやカタカナ名詞が日本語とは思えないポップなスピード感となっていたビート。アスファルトに刻まれたような青春の痛みと反抗の詩。82年発売のアルバム「SOMEDAY」に至る三枚は、そんな世代のみずみずしいモニュメントだった。
彼は、それを捨てた。そして、単身、ニューヨークに渡った。
83年のマンハッタン。ラップとブレイクダンスと地下鉄のペイントに象徴されるストリート・アート。肩に巨大なラジカセを担いだ黒人やヒスパニックが踊っている路上の光景。胎動し始めていたヒップホップ・カルチャーの熱気。街中に溢れていた猥雑なエネルギーは、今のニューヨークにあるだろうか。「COME SHINING」にも出てくるアルファベット地区と呼ばれたロワー・イーストは、ジャンキーやアル中のたまり場でもあった。
彼はその渦中に身を置いた。その中で一人で作り上げたのが「VISITORS」だった。
アルバム「VISITORS」を一言で言えば、”ヒップホップカルチャーと対峙したメジャーシーン最初のアルバム”だ。
敢えてメジャーシーンという注釈を加えたのは、「VISITORS」が、単にヒップホップを取り入れた、サブカルに特化したアルバムではないからだ。50年代以降のロックン・ロールやアメリカン・ポップへのメロデイックな郷愁も感じさせる。更に言えば映画音楽のような情景感も備えている。アルバム一枚が、東京から単身乗り込んできた向こう見ずなVISITOR(表現者)のドキュメンタリー・ストーリーとなっている。
そして、発売初登場でアルバムチャートの一位にランクされた。つまり、84年春に最も売れたアルバムの一枚でもある。
彼は27才だった。ロック・ヒストリーの中の27才がどういう年齢か、説明の必要もなさそうだ。ジミ・ヘンもジャニスもジム・モリソンも、みんな27才で死んだ。このまま無様に”つまらない大人”になってゆくのか、それとも世界を敵に回してでも生き様を全うするのか、あるいは、新しい世代として未知なる地平を切り開けるのか。
「VISITORS」には収録されていないが、マンハッタンで初めて出来た友達の死を歌った「SHADOWS OF THE STREET」は、彼にとって、そんな曲だったのだと思う。
今回の30周年DELUXE EDITONには、当時、発表されなかった曲「CONFUSION」が、陽の目を見ることになった。レコーデイングも8割終えていた段階で収録されなかったのは、あの曲だけ”大人の匂い”がしたからではないだろうか。一音一音までもが逼迫した緊張感を放っている他の曲と比べると確かに違う。そういう一途な気迫に貫かれたアルバムだったのだと改めて思った。
83年に開花していたのは、ヒップホップだけではない。ビデオ・アートや環境芸術、サンプリングなどのテクノロジーの進歩とアート新時代。クラブミックスや12インチ。「VISITORS」は、そんなカルチャー・レボリューションを反映したアルバムでもあった。音楽とメデイアという文脈でもこのアルバム以上に歴史的な意味を持つ作品はないのではないだろうか。
もし、改めて関心を持たれた方は、このアルバム以前の3枚のアルバムから順に聞かれると良いと思う。そして、その後のアルバム「カフェ・ボヘミア」もだ。何が変わって、何が変わらないのかが鮮明に伝わるはずだ。
音楽と時代、そして街の文化。一人のアーテイストの一世一代の決断が見事に凝縮されたアルバム「VISITORS」。僕も、同じ年に、何が起きているのか眠るのも惜しいと思いつつ野良犬のようにマンハッタンをうろつき歩いた一人だった。
もし、ニューヨークに行ってなかったら、という仮説は成り立つか。先日、30年後の彼にそんな質問をした。彼は、もう一つの選択肢があったことを教えてくれた。
あの時、彼はウッドストックでレコーデイングするという案も持っていたのだそうだ。実際に現地にも行った。もし、そうしていたら、ヒップホップにも出会わなかったし、70年代の良質なロックを継承するアルバムを作っていただろう。でも、結局何かに導かれるようにマンハッタンに行った。そして、このアルバムを作った。それは、偶然でもあるし、必然でもあると思う、と言った。「VISITORS」は、生まれるべくして生まれた作品だったのかもしれない。
あれから30年が経った。
でも、音楽は色あせない。
”VISITOR”はどこにでもいる。
物語は生き続けている。