特集 = VISITORS再訪

失われた“grace”

渡辺 亨

 佐野元春のデビュー・アルバム『BACK TO THE STREET』がリリースされたのは、1980年のこと。この年、100万部を超えるベストセラーを記録したのが、田中康夫のデビュー作『なんとなく、クリスタル』だ。奇しくも2014年、『VISITORS DELUXE EDITION』が届いてから約1ヶ月後、田中康夫の『33年後のなんとなく、クリスタル』が刊行された。

 僕は1980年には、東京でアパート暮らしをしながら私立大学に通っていた。そして『VISITORS』がリリースされた1984年5月には、社会人としての第一歩を踏み出したばかりだった。言うまでもなく、その第一歩は非常に弱々しく、危うく、当時の僕は大きな不安を抱えていた。しかし、自分の将来を夢見ることもできた。時代の追い風を受けていたから。

 「過去」をいたずらに美化してはいけないし、そうするつもりもない。だが、1980年から1984年までの間は、単に経済的な面でばかりではなく、色々な意味で日本が豊かだった時代で、僕のような若者はその豊かさを享受していた。そんな当時の日本を象徴するアルバムの一枚が、81年3月にリリースされ、翌年にミリオン・セラーを記録した大滝詠一の『A LONG VACATION』だ。そして大滝詠一、佐野元春、杉真理の3人による『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』がリリースされたのは、ちょうど1年後の82年3月のこと。このアルバムもヒットし、5月には佐野元春の『SOMEDAY』が後に続いた。これらのことをきっかけに、佐野元春の名は一気に日本中に広まった。

 80年代前半の日本は、経済的豊かだったとはいえ、まだバブル景気に沸く前。だから欲望が剥き出しになってはおらず、また、最近のように国籍や人種の異なる人たち、あるいは自分と境遇の違う日本の人たちを迫害するような言動も顕在化していなかった。換言すると、当時の日本社会は色々な意味で余裕があり、ある程度“品位”━━佐野元春の最近作『ZOOEY』に収められている「世界は慈悲を待っている」のキーワードである“grace”が保たれていた。

 『VISITORS』はニューヨークで構想され、現地のミュージシャンやスタッフの力を借りて録音されたアルバムだ。83年から約1年間にわたるニューヨークでの生活のひとつの帰結であり、当然のごとく、「Tonight」や「Come Shining」などニューヨークを舞台にした曲が多い。しかし、30年後のいま、『VISITORS DELUXE EDITION』で「Tonight」を聴くと、あの頃の東京がまざまざと甦る。

 「Tonight」の音作りには、「80年代」が刻印されている。このことをもっとも印象づけるのは、デジタル・シンセサイザーの音色とドラムのサウンドだ。この曲に限らず、当時の最新テクロジーを駆使して作られた「80年代サウンド」は、多かれ少なかれキラキラしていた。だから90年代に聴き返すと、いささか気恥ずかしさを覚えたものだが、この2014年に僕は「Tonight」を聴いて、胸を掻きむしりたくなった。「Tonight」に描かれている夜の街を颯爽と駆け抜けるイメージ。この鮮烈なイメージを伝えるのは、歌詞以上にキラキラしたサウンドだ。これはニューヨークの歌だが、すべての都会の歌だと僕は解釈する。あの頃の東京の歌でもある、と。

 夜の都会には、危険が潜んでいる。しかし、「Tonight」に描かれている都会は、殺伐としていない。街の灯りがある。つまり暖色があり、希望がある。シンセサイザーの音色はクリスタルのようにキラキラしているけれど、けばけばしいわけではなく、ある種の品位が感じられる。あの頃の東京がそうだったように。最近、いや、ここ数年の間に、こんな日本のポップ・ソングを耳にしたことがあっただろうか。2、3曲なら思い出せるが、少なくとも僕には、それ以上の記憶がない。

 この「Tonight」と対照的なのが、「君を汚したのは誰(SHAME)」だ。この歌詞のアクチュアリティーには、身震いする。これは、まるで現在の東京、ひいては日本の歌。街頭で、学校で、職場で、そして80年代には存在しなかったソーシャル・ネットワーキング・サービスやコミュニケーション・ネットワークで、誰かが誰かを虐め、蔑み、罵り、傷つけている日本の、憂うべき現状を歌った曲ではないか。

 1980年の時点における佐野元春の歌の世界観と『なんとなく、クリスタル』の世界観は、いわば平行線のようなもので、決して交わりはしなかった。少なくとも僕は、このように捉えている。僕は、まだ『33年後のなんとなく、クリスタル』を読んでいないので、この小説にどんなことが書かれているか知らない。ただ、1980年代に大学生で、前述した意味での豊かさを謳歌していた登場人物たちが、昨今の日本を全肯定しているとは思えない。「Tonight」に描かれているあの時代の輝きを知る彼らこそ、このどんよりとして暗く、殺伐とした現在の日本に居心地の悪さを感じている、と思いたい。

 もちろん、誰も過去には戻れない。もう手遅れかもしれない。しかし、それでも前を向いていくしかない。いちばん大切な“grace”を胸に抱えて。そして「Tonight」の“明日のことは誰にもわからない/だから僕の手をとって/目を閉じないで”というフレーズを口ずさみながら、一歩一歩、たしかな足取りで。

 
[Back to Contents]