ゾーイ、沸騰する生の讃歌
青澤隆明

  この現代において真に口ずさまれるべき一篇の詩はあるか--際限なく繰り返されるその問いかけに対する、佐野元春一流の生きた回答がここにある。『Zooey』の言葉と音楽はシンプルに強く、幅広い年代のリスナーひとりひとりの柔らかな心に寄り添う。

 言葉が立っている。かつてない独特の佇まいで、『Zooey』の言葉は朗らかに脈動する。

 ペシミスティックな詩人も、人生や日常を哲学する賢者もここでは影を潜めている。警告を発するトリックスターも、パーティーに浮かれる若者たちも、街の聖者も専制君主もいない。いや、そのすべてがいるはずなのだが、決して表には立たないだけだ。『Zooey』の情熱は、もっとロマンティックで感傷的で、弾む心に浮き立っている。それはなにもいたずらに制約することはなく、むしろ自由や解放へと瑞々しく手を伸ばしている。あたかも恋する男が日々を抱きしめるように、やさしく、親切に、穏やかな体温を通わせて。

 凍りつかせることも、突き放すこともなく、すべてのリリックが愛おしく歌われている。『Zooey』の言葉は、これまでに佐野元春が放ってきた詩行とは明らかに趣が異なる。とても懐かしいのだが、なにかが確かに新しい。大らかで、平易で、その分だけ自由だ。

 血が通っている。荒地ではない、人間の大地を彼は往く。『Coyote』の予兆の後にやってきた現実の荒地を、彼はもういちど人の営みで満たそうとしている。アルバム『Coyote』のときもそれまで以上にストレートな歌いかけがなされていると感じたが、『Zooey』の新しい言葉はもっと率直だ。大らかで、親切で、平易でわかりやすい。詩人は突き刺すのではなく、包み込むような言葉をあえて多用している。カタカナや英語や抽象的な観念の語彙はとても少ない。彼特有の鋭角的な表現を放つよりも、ずっと大らかな丸みを帯びた語りかけをとる。これは自然な心境でもあり、同時に高度に意識的なことだろう、ソングライターは自らの表現を現在のリスナーの心に向けて、さらに柔らかに開け放とうとしている。

 『Zooey』の言葉はとてもシンプルに響く。驚くほどダイレクトと言ってもいい。存分にオリジナルなのだが、しかし独創の気どりはない。言葉の間口を、ある意味で平たく、そして広くとっている。佐野元春の新しい詩作は、かつてないほどやさしい。

 そして、どの言葉も丁寧に音に乗せられている。音節ぎりぎりいっぱいの密度と速度を籠めて、フレーズを爆発させることも少なければ、ヒップ・ホップ調の鋭敏な饒舌さで畳みかけることもしない。それらの粗暴なまでの意気や鋭利な光彩をすべて柔らかく消化して、ここでは言葉がもっと穏やかで、寛容な響きをとっている。フレーズの意味も難解ではなく、独自の尖鋭な意匠を脱ぎ捨ててでも直截に伝えることを優先するアティテュードが選択されている。

 もちろん、そこには作家としての成熟の自負があるだろう、彼は平易な言い回しとその組み合わせで、確実に声を届けようとしている。その温かさと優しさが、聴き手にはどこか新しくも懐かしい。

 佐野元春のソングライティング技術、その独自の経験と奥行きをもってすれば、隠喩や象徴的な表現を利かせて多義的に世界を構成するのはお手のもののはずだ。しかし彼は『Zooey』の言葉をそのようには扱わない。もっと直接的に放たれる言葉を、ソングライターは注意深く選びとっている。詩行と詩行の間の意味やイメージの跳躍や、色彩と速度をもったメタファーは控えめだ。佐野元春が--そしてほとんど佐野元春だけが--日本のポップ・ロックの音楽表現のなかで果敢に達成してきた言葉と音楽、リリックとサウンドの強度の拮抗や激しい衝突は、本作ではあえて平穏な表情のうちに潜められている。

 『Zooey』のいくつかの曲はすでにライヴで発表されてきたが、アルバムで活字に組まれた佐野元春の新しい詩を読んでいけば、そのことはさらによくわかる。ここに集められた楽曲の大半で、ソングライターは言葉から旋律を導き出していったのだろう。言葉に内在する旋律が自然な抑揚で音楽に反映され無理なく展開されている。

 どの曲でもいい、たとえば「虹をつかむ人」がフィル・スペクター流のサウンド・アプローチのなかに、どこかピーター・ポール&マリーの"500 miles"を髣髴させるようなフォーク調のメロディーをさりげなく歌うことを聴けば、このことは容易に想像される。あるいは、「私たちはずっと共にいる」と口ずさまれる「詩人の恋」。親密なメロディーの多くが体温をもって、ふと口ずさまれるように響いてくる。そもそも、佐野元春の詩のなかで「私たち」という言葉がそのままに歌われたことはこれまであっただろうか。「La Vita è Bella」は歌い出しから、力みなく自然な躍動に弾んでいく。

 『Zooey』に充ちる個々のメロディーは今後、広い世代の聴き手の多くに幾度となく歌われることだろう。それぞれの生活のなかで、日常のさまざまな光景のなかで、とりわけ気分のいいときに、聴き手はここにある歌のなかのフレーズを思わず口にするに違いない。

 言葉の美学と同じことは『Zooey』の音楽の間口についても言える。サウンドやバンド・アレンジも一貫して、きわめてシンプルに、広く親しまれるような表現を採っている。

 それは、新しいリスナー、とりわけ若い世代に心を開いた歌いかけを志向しているからに違いない。できるかぎり広い聴き手へと伝えようという大らかな意志が、ストレートに開かれた表現へと結実している。だがもちろん、ソングライターは現在、つまり50代後半を歩む佐野元春である。オープニングの「世界は慈悲を待っている」を聴いた途端に、聴き手の心に沸き上がる思い、その柔らかで眩い泡立ちはどうだろう。あたかも前作の「君が気高い孤独なら」の詩人が「ヤングブラッズ」を歌うような、新しくも懐かしい、達観しながら同時にアクティヴであるような不思議な位相から、その声は響いてくる。このことが余裕や風格を湛えた独自の奥行きを『Zooey』にもたらしている。

 誰もが口ずさめるように、『Zooey』の歌は構成されている。誰にだってわかることを、誰にも共感し、自分のことと思えるようにまっすぐ歌い上げる。彼が言うように、毎日が劇的な変革だとしたら、そこに瞬く感動や驚きがあるとしたら--そう、詩人は恋をしている。

 端的にいえば、アルバム『Zooey』が中心としてみつめるのは愛の諸相である。さまざまな段階の、いろいろな日常に宿る友愛や情愛を、佐野元春は速度とユーモアをもって描き出している。アルバム『Coyote』からの連続性もあれば、明快な跳躍もある。「君を愛してる」と打ち明け、「真実が醜い幻ならば/僕らは何を信じればいいんだろう」と前作の終曲で呼びかけた男は、この新作で自らの信じるに足る生を大らかに明示しようとしている。つまりこういうことだ。「孤独」から「慈愛」へと、佐野元春は歩みを進めている。あるいは、荒地から希望へと、言葉を踏み出している。それは率直で、確実な一歩だ。

 『Coyote』の主人公は象徴的な意味合いを抱いて文明や精神の「荒地」を旅したが、そこでの悲観的で鋭角的な視点は薄れ、『Zooey』のソングライターは人と人のパーソナルな絆へと愛情深い目線を投げかける。東日本大震災以降、現実のものとして物理的にも顕在化した価値観の崩壊のなかで彼、かつて「瓦礫のなかのゴールデンリング」を謳った詩人は、本作で意識的に強くヒューマニズムを打ち出している。そして、それを若い年代のミュージシャン=ソングライターとともに掻き鳴らすことで、「この先へもっと」のメッセージをより高らかに、希望を籠めて歌い上げることに成功した。

 「穏やかで未経験な君」はこうして、かつての彼であり、現在の彼であり、彼らであり、過去や現在や未来の聴き手でもある。激しいシャウトとも、厳しい糾弾やユーモアを抱く煽動とも趣の異なる、しかし決然としたその呼びかけの熱が、包み込むような柔らかさを失うことはない。穏やかな微笑みが、そこかしこに花開いている。それぞれの歳月の、それぞれの風景に捧げられるかのように。ポップ・ロックは日常の祝祭であり、これは30年以上の歳月をプロフェッショナルとして言葉と音楽の探求に明け暮れてきた孤高の表現者からの、花束のような祝砲である。そして、祝祭はいつもその花の奥に革新を潜めているものだ。

 「あの日から何も変わっちゃいない」と佐野元春は冒頭曲でさっそく宣言する。続いて「どうにかここまでたどりついた」と語ってみせる。どちらもほんとうのことだ。永遠と刹那は、視点の移動でしかない。少なくとも、時代を超える、すぐれたソングライターにとっては。

 21世紀に入って最初のアルバム『THE SUN』で、佐野元春はいわゆるふつうの人々の群像を慈愛をもって照らした。太陽、神、夢、希望、存在について語り、稠密に描き出される人々の光景を寛容に謳っていった。豊かな経験の歌たちには、太陽がみつめる、という俯瞰の視野そのままに、静的ともいえるほど達観したまなざしがあった。

 しかし、佐野元春のソングライティングは、これまでのキャリアでもそうあったように、そこから急激な展開をみせる。「星の下 路の上」の呼び声に応え、孤独な詩人の旅をロードムーヴィーふうに綴った野心作『Coyote』が続き、ソングライターは野生を想像させる冒険へと乗り出した。しかも、次なる世代のミージシャンたちを新たなバンドとしてその挑戦の旅に同行させて。

  "コヨーテ"という謎めいた男からの、一人称や二人称の語りかけによって構築された一巻の旅は、前作『THE SUN』とは強いコントラストを示していた。主観的でときにヒロイックな呼びかけから、動態の表現が躍動し始める。一人の神話的な話者を設定することで、ある意味ストレートなアティテュードを採った作家は、これまでの楽曲で自身が示してきたエッセンスやフラグメントの煌きをいくつも鏤め、それを聴き手と分かち合うことをも愉しんでいるようにみえた。

 しかし、孤独な旅は海を前にして途切れる。そのあとに響くのは再会の約束と、共生の真実だけだ。続く『月と専制君主』は、長年の音楽仲間との交感を通じて、多様な旧曲に改めて取り組んだセルフ・カヴァーとなった。それは、友愛と共感の果実であり成熟の収穫だった。

 デビュー30周年を総括する活動と並行して、佐野元春は慎重に、そして驚くほど急速かつ着実に新バンドThe Coyote Bandのサウンドを構築していった。2006年春、TheHobo King Bandとの30周年記念ステージのアンコールで、ステージに呼びこまれた深沼元昭、小松シゲル、高桑圭がシングル「星の下 路の上」を披露したのが、その後The Coyote Bandとして展開されていくバンドの原型となった。2009年夏に佐野自身のキャリアで初となるライヴハウス・ツアーを敢行すると、2010年の秋からキーボードに渡辺シュンスケを迎えてライヴハウス・サーキット・ツアーを展開。その後には藤田顕を迎え、ツイン・ギターを擁する新生バンドとして2012年初夏にZeppツアーを成功させた。さらに冬のホール・ツアーでアンサンブルをさらに逞しく熟成させる。2013年2月23日、東京国際フォーラムAホールに帰還した彼らは、バンドとして確立した自信、楽曲への確信と愛情を堂々と示していた。『Zooey』の内実に相応しい、深く沸き立つ情熱を緊密でしかしラフな感触も残したバンド・アンサンブルで彼ら自身の楽曲をかき鳴らした。

 それは、復興と新生のための歳月でもあった。『月と専制君主』の発表した2011年の春には、東日本大地震が起こり、未曽有の大災害と原発事故を招いた。その直後に再開されたNHK教育テレビジョンでの「ザ・ソングライターズ」、3年目のシーズンで、佐野元春は若い世代のソングライターたちに対し率直に問い続けた。ポップ・ロック音楽の創作表現は現実を乗り越える力を持ち得るのか、と。

 不安と混沌のなかで、誰もが一歩を踏み出し、または歩み出そうと模索していた。もちろん、ソングライターである佐野元春自身には、彼独自の回答があり、また求められているはずだった。対話のなかで問いかけるよりもさらに重く、彼自身がその答えを示す必要があった。しかし、彼は事を急ぐのではなく、人々の心情の機微に浸透し、それをしかるべきときに鼓舞するかたちで、分かち合う希望として歌うことにしていたのだと思う。

 忘れもしない、2001年9月11日、アメリカで起こった同時多発テロの衝撃の直後には、佐野元春は「光 - The Light」という曲を書き、2日後にはダウンロード配信を行うと、同月下旬のスポークンワーズ・ライヴ「in motion 2001」のアンコールでも演奏した。早急なリアクションだった。2011年3月11日の大震災直後、2日後の自身の誕生日に臨み、「それを希望と名づけよう」という詩を佐野は自らのウェブサイトに掲げた。しかし、そこから新しい音楽が届けられるまでには、もう少し時間が必要とされた。

 「愛して、生きる歓びを」明朗に、力強く歌ったリーディング・トラック「LaVita e Bella」が音楽として聴き手の心に鳴り響いたとき、そこにはアルバム『Zooey』に集められた楽曲の大半が準備されていたことになる。音楽家佐野元春はじっくりと、辛抱強く行動した。そして、「あの日見た朝の景色を/けして忘れはしないだろう」と彼が歌い始めたとき、そこには新生なったThe Coyote Bandの確かなサウンドが発酵していた。

 さて、『Zooey』の主要な主題は、愛の諸相だと先に書いた。意図してのことか、たまたまの符合か、ちょうど「食事とベッド」の英題が「Lover's Rock」とされたように。

 もちろん、すべての歌は、すべてのポップ・ソングは例外なくラヴ・ソングである。誰かに歌いかけること自体が、メッセージや内容の如何によらず、愛の響きを帯びるからだ。かつて、佐野元春が若き革新者として、後に成熟した作家として視点で語るとき、それは世界へのラヴ・ソングであることが多かった。

 しかしここでは、歌いかける相手がしっかりとみえるような気がする。抽象的な若者像ではなく、愛すべき者や友人たちへとその宛先がまっすぐ向けられているように思う。コンセプチュアルな精神の共闘や同時代の連帯よりも、もっと身近な親密さが体温や温度として感じられる。歌いかける相手の顔がよくみえている。歌の主人公はそれぞれに愛する者に歌いかける。それは、遠くにいる同志を夢みて煽動するような祈りの声ではない。もっと直截的に、ともに生きる人々のライフを温めるように歌を届ける目の前の人の声だ。

 こうして、佐野元春は2011年以降の「愛のアルバム」をつくった。それにも、「理由はない」。いや、確かにある。ずっしりと、ある。パーソナルに、そしてより普遍的に。それを「命」と呼ぶことの確信には躊躇いも衒いもない。それは情熱であり、現代のソングライターとしての彼が厳しく、あるときは粗暴に、あるときは繊細優美に自らに課した使命でもある。

 たとえば、「君と往く道」で語り手は愛の直中に身を置いているし、「詩人の恋」をバンドとともに成立させたときのことを、佐野元春はなにか解放感を感じたと述べている。あるいは、ソングライターはある意味、意識の階層における「佐野元春」からの解放を、新しい成長するバンドとともにやり遂げたのかも知れない。そして、それこそが、1980年代の佐野元春自身が既存の日本のロック音楽を突き放したときの勇敢な冒険にも似て、やむにやまれず前進する躍動感を瑞々しく導くことに繋がっているのだろう。だからこそ、ここで彼は大らかなほどに自由だ。

 サウンドも多彩で、それぞれがそれぞれのスタイルで鮮やかにポップを謳う。音楽へのリスペクトは、レイディオ・ショーの選曲校正とDJを通じても毎回のように確認と肯定を促しているが、彼自身の実作にもラジオをよく聴くことで育まれた良質のポップ・ソングの伝統が確実に脈づいている。私たちはだからさまざまな記憶や継承を、新しい反響のように佐野元春2013年の新作の沸き立つ響きのうちに聴くだろう。

 世界のどのレイディオ・ステーションでかかっても不思議はない。それほどにしっくりくるサウンドだ。どの曲も経験豊かな意味で懐かしく、そして無邪気なまでに真新しい。疾走は精神の若さであり、足どりは経験の自信だ。それを勇気と言い換えてもいい。ここには解放がある。率直な語りかけがあり、自由がある。そして、まるで凱旋のような、大らかなセレブレイションがある。

 最後のステイメントをなす楽曲「Zooey」へといたる章構成も見事だ。「あるべき理由であるべき場所に/たどり着くまで」の道筋が、アルバムを通じてきれいに築かれている。これは14枚もの多種多様なオリジナル・アルバムを、すぐれた批評的な視点をもってまとめてきた鮮やかな連繋の知性と感性の仕事だ。

 創造的なパッションのすぐ隣には、選曲構成者としての批評的視点がある。「Zooey」という終章にいたる旅は、前後半6曲ずつの2部構成で大きく物語性を帯びる。それは、アルバム『Coyote』のときにもなされたことで、ここでも連想力豊かに想像力とイメージの円環をかたちづくっている。終章は始まりであり、そして結論は宣言のかたちをとる。

 そもそもオープニング曲「世界は慈悲を待っている」のなかで示されているように、「終わりははじまり」である。「あの日からなにも変わっちゃいない」と彼は歌う。モータウンふうの曲調は『Coyote』収録の「君が気高い孤独なら」を直観的に連想させ、その地点からの進境を顕かにする。つまり、ここで「孤独」は開かれた「慈愛」へと歩みを進めている。そして、慈愛の光が降り注ぐ輝かしい光景を、佐野元春は曲題では「慈愛」でなく「慈悲」と呼ぶ。「慈悲」はまさしく「君」という語と同じ韻律をもって響きわたる。友愛はここでもっと私的な愛のかたちに近づいている。決意に充ちた響きをもって慈愛を歌うなかでの、その視線の優しさはどうだろう。

 「君と一緒でなけりゃ」もひときわ象徴的な楽曲である。佐野自身のメモによれば、『THE CIRCLE』への収録を見送った旧作だというが、30周年の記念に公開されたデモ・トラックで、仮題として与えられていたのは「ソサエティ」であった。そう思って聴けば、確かに「ソサエティ」の歌にもみえる。否定的な感情や喪失感を見事に表現したアルバム『THE CIRCLE』の中にあっても相応しい性質を帯びた曲だと思える。しかし、『Zooey』のなかでは「君と一緒でなけりゃ」という標題に改められている。厭世的な絶望や内省的な批判より、愛するものとの絆が結果としてさらに強調されることになった。それこそが『Zooey』の主題に近いからだが、やはりアルバム中では異彩を放つ。この曲と「愛のためにできたこと」だけが、アルバムが全体として放つ希望や決然とした意志や疾走とは趣が異なっており、しかしそれと同じ理由で本作に経験の奥行きを与えている。

 その『THE CIRCLE』は1993年のアルバムだから、ちょうど今年が20周年を迎えたことになる。しかしどうだろう、『Zooey』のなかで、The Coyote Bandのアンサンブルで披露されたこの曲の不思議な質感と存在感は。20年前の傑作は表題も示すとおり「円環」、つまり諦観を超えて再生へと向かう経験の歌である。いま『Zooey』に響くのは、無垢と経験がよく調合された、懐かしくも新しい光景である。大切なのは、心弾むことだ。それはどこか恋に似ている。私たちは、初めて佐野元春を知ったときのような心で、彼の新しいポップ・ソングを聴くことになるだろう。真新しい聴き手であっても、懐かしい聴き手であっても、おそらくこの実感は変わらない。

 世界を、人間の大地を、彼は若い音楽仲間たち--すぐれたソングライターたちを含む--そして、年若い友人たち、あるいはこれから出会うだろう聴き手に向けて、高らかに、朗らかに、そして変わらず真摯に歌いかける。こうして佐野元春自身がオープニング曲で宣言するように「新しい誰かと出会うために/新しい場所へと歩き始めた」。

 情熱と痛切、無垢と衝動、葛藤と平穏--佐野元春はそれらをまるごと沸騰する生に置く。孤高ではあるが、もはや孤独ではない。少なくとも”コヨーテ”の詩人のようには。そう、人生は美しい。