「3.11」以降の愛と命を歌う
市川清師

 あの日から2年が経った。未曾有の災害をもたらした東日本大震災と福島第一原発事故。多くの痛みと傷跡を残し、それはいまも続いている。2年の月日を経ても復興は遅々として進まず、反原発や脱原発の機運は萎み、政権交代後、再稼働や新設もまことしやかに検討されている。2011年3月11日以降、“まさか”は“まさか”ではなくなり、“今日と同じ明日がやってくる”ということも信じられなくなった。

 多くの人達の生き方を考え直す契機になっている。そして、恋愛観なども大きく変化していった。“絆婚”や“繋がり愛”などの言葉も生まれたが、それも「3.11」以降ならではのことだろう。

 以前、現代の恋愛やセックスをジャーナルするノンフィクション作家や映像プロデューサーと、「3.11以降の恋愛やセックス」について語り合う機会があったが、以 前と以降では人の心や気持ちに大きな変化があったという。“一緒”であることや“共にいる”ことが意識され、機を逃さず、“本能”や “欲望”に向き合い、“超自然体”になったそうだ。決し て、それが最大公約数的なものではないにしろ、そんな話を身近に聞いたという方も少なくないはず。

 優れた詩人は時代の風を詠み、真理や真実を紡いでいく。そんな宿命や役目も負っている。その表現活動において、意識しようとしまいと、色濃く滲み出てしまうものだ。

 そういう面では、佐野元春は、芳醇なる音を奏でる音楽家にして、真摯たる詩人である。影響を受けないわけがない。自らが主宰するNHK Eテレ『佐野元春のザ・ソングライターズ』においても「3.11以降」をテーマに多くの音楽家と語り合うとともに、自問自答を続けてきた。音楽家の中には、大災害を前にして音楽の無力さを嘆き、思考停止に陥り、活動放棄にするに至ったものさえいる。表現者にとって、それだけ大きな出来事であった。

 佐野の最新作『ZOOEY』 は、その主題の多くが愛について歌っているものである。具体的に言葉を抜き出しはしないが、どれもが「3.11以降」の愛の行方やあり方を模索し、提示していると言っていいだろう。大きな喪失を経た荒野を生き抜く愛を歌っているともとれる。そういう点では、90年代のバブル崩壊後の荒地に“無垢なる魂”で挑んだ『CIRCLE』(1993年)とも通底する。『ZOOEY』に同作の制作時に作った曲が形を変え、収録されたというのも無縁ではないだろう。

 『ZOOEY』の登場人物は、「アンジェリーナ」や「サムデイ」、「ロックンロール・ナイト」など、佐野の歌の主人公たちの30年後といえなくもないが、それぞれに歳を重ね、つまらない大人になりたくないといっていたキッズ達もいい歳になってきた。佐野自らも発売日の3月13日には56歳、既に齢50半ばを超え、60に近づこうとしている。幸いなことに佐野はつまらない大人になることなく、彼と同世代や、彼とともに成長してきた世代の大人達の“憂い”や“思い”を代弁し、心のつかえのようなものを解き放つ。その歌は胸にしみいる。同じ時代を生きていたものへのエールやシンパシーであると同時に、若い世代への挑発(と、敢えて書かせていただこう)でもある。こんな大人だけど、どうだいと問いかけているようでもある。いつの時代も若者が先鋭的で、過激であるというのは草食系などと揶揄されるいまにあって、それは幻想でしかない。むしろ、年代的に成熟しつつも物わかり良く、丸くなることない、かといって、頑固で偏屈な“ロックおやじ”や勘違いの“ちょい悪おやじ”などにならず、いつまでも鋭角的で、研ぎすまされている。真に前衛で過激だったりする。“かっこいい大人”などというと、軽佻浮薄な響きだが、ヘンミングウェイ、白洲次郎、植草甚一、ディラン、コステロ、松田優作…など(この辺はご自身が憧れる大人を当て嵌めていただきたいが)、そんな大人に連なる存在だろう。そんな、いまの佐野元春の姿勢や資質が歌の世界に貫かれている。この荒地に凛として立ち向かう大人の生き様(と、佐野元春には似つかわしくない、敢えて、“大時代”的な表現を使ってみる)を描いて見せている。

 荒地をともに旅する同行者たるザ・コヨーテ・バンドとは、2005年に佐野が声をかけて、ギターの 深沼元昭(Mellowhead)、ドラムスの小松シゲル(Nona Reeves)、ベースの高桑圭(Great3)がスタジオに集まった「星の下 路の上」のセッションから。既に8年の付き合いになる。2007年には、彼らとともにアルバム『COYOTE』をレコーディング。同作は「コヨーテ」と呼ばれる、あるひとりの男の視点で切り取った12篇からなるロード・ムービーであり、その映画の「架空のサウンド・トラック盤」という想定で作られたコンセプト・アルバムだった。その後、数々のライブハウスツアーやクラブ・サーキット、ホール・ツアーを経て、バンドはバンドになっていった。その間にキーボードの渡辺シュンスケとギターの藤田顕(PLECTRUM)が加わっている。

 彼らは佐野とは一世代、二世代も下の世代なるが、音楽を媒介にすると、年齢格差はなく、ハートランド、ホーボーキングに続く、佐野のバンドというべき頼もしい仲間になっていった。時と試みを重ねたことで、コヨーテ達はバンドとして、熟成してきた。だからといって、ベテラン・バンドのように落ち着き払うことなく、若々しさと荒々しさをいい意味で湛え、同時に、若気の至りに陥らない思慮と配慮も見せる。佐野の様々な音楽性に対応しながら、ロックやソウル、ファンク、ブルース、ジャズ、フォークなどをシェイクし、メランジェしてみせ、ザ・コヨーテ・バンドとしてのビートやグルーブを刻んでいく。佐野の歌とコヨーテの音は拮抗しつつ、融合していく。相反するものが合一する、というと安易なものいいになるが、思いきりクールでソフィスケイトした演奏を聞かせる傍ら、剥き出しの勢いのままの演奏も聞かせたりもする。振幅の大きさ、その揺らぎこそ(あれ、CDカバーの“揺らぐことない元春サウンド”というコピーと相反してしまう、すまん)、彼らの真骨頂であるとでもいっておこうか。

 “ZOOEY”というと、かのサリンジャーを彷彿させるが、佐野は“「ZOOEY」とは、ギリシャ語の「ZOE(ゾーエー)=いのち」を語源とする。この「ZOE(ゾーエー)」は生物学的な命ではない。生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続ける命を指している”と、自ら解説している。

 こんな時代や境遇にあって、自暴自棄にならず、かといって、自己憐憫になることない、慈悲と滋味溢れるラブソング集『ZOOEY』 。そこには成就された愛や叶わぬ愛、生き続ける命、全うすることができなかった命について、その真理や真実を解き明かす歌が溢れているのだ。

 より多くの人がこの『ZOOEY』のことを知り、聞いてもらえたらと思う。これを聞くと、誰もが何かを語らないと気が済まなくなる。表現することを生業にしているものでなくても何かを表現したくなるはず。アーティストやクリエーター、ジャーナリストなどではなくても意識的に生きるということを表現とするならば、そんな表現者達を刺激するものだ。決して、幸福とはいえない、この荒地のような現代にあって、生きる勇気と夢と希望を与えてくれもする。そういえば、以前、佐野元春は、あるコンサートで「残すべきは夢や希望」と語っていた。賢者の石を探しつつ、愚者の船を曳航していく。街角にコヨーテの咆哮が響き渡れば、この荒地が少しでも居心地のいいところになるかもしれない。『ZOOEY』 を聞いていると、そんな気になる--。