山本智志
驚いた。佐野元春のニュー・アルバムが、強くて熱い、生々しいサウンドで貫かれていたことに、だ。それまで速度を保って慎重に車を走らせていた彼が、急にギアを入れ替え、アクセルをいっぱいに踏み込んだかのようだった。初めて『Zooey』を聴いたときのゾクゾクするような、そしてじわじわと押し寄せるような興奮は、いまも消えない。それは、この2〜3年、ニール・ヤングの『アメリカーナ』など何作かを除けば、ロックのアルバムからはほとんど得られなかったものだ。
アルバム・カヴァーの佐野は、濃いサングラスをかけ両手をズボンのポケットに突っこんで、無名ロッカーのようなふてぶてしさを漂わせている。CDブックレットを開くと、サングラスを外した彼がじっとこっちを見ている。威厳のあるビクトリア調のアンティークなレザー・ソファに座って、佐野元春はわれわれを睨んでいるのだ。その表情は怒りさえ感じさせるほど厳しいもので、右手はここでもポケットの中だ。
気がつくと、アルバムは最後の曲である「Zooey」に差し掛かっている。マーク・ベノの素晴らしいアルバム『Minnows (雑魚)』の1曲目に「フラニー」という美しい曲が収められていたことを思い出す。「Zooey」の次は「フラニー」を聴こうかなと思い、レコード棚に目をやるが、心を突き動かされるような「Zooey」を聴いているうちにそんな考えはどこかに行ってしまう。
「La Villa e Bella」。昨年のツアーから披露されてきたこの曲は、聴くたびに好きになっていくのがわかる。そして、新しいアルバムの1曲として聴くことがそれを決定的にした。この曲はシンプルだ。単純なのではなく、簡潔なのだ。佐野は《生きる歓びを 信じていいんだろう》と自問するようにうたっている。しかも、「きっと」「もっと」という副詞をふたつも重ねて。彼は述べている。《愛しいことに理由はない。ひとの命は続いてゆく。ただ残念なことに、ひとが「La Villa e Bella - 人生は美しい」と感じられる頃には、身も心もスリ傷だらけだ》。この曲にこれ以上何を言う必要があるだろうか。
最高のロックの演奏を伴って、「ポーラスタア」は聴き手に真っすぐに向かってくる。冬の星空に輝く北極星が《二人の行方 見守るように瞬きを繰り返している》。なんて美しい1行だろう。幻想を伴わないロックのロマンティシズム。それを日本語の歌を通して表現しているロック・アーティストは、この日本では佐野元春をはじめ数えるほどしかいない。
「君と一緒でなけりゃ」は、アルバム『ザ・サークル』の制作時に書かれた曲だという。本当だろうか。この曲が20年も前に書かれていたなんて。あの頃聴いていたらどう思っただろう。《人間なんてみんなバカさ》と吐き捨てるように、そして辛辣に、佐野はうたう。しかし、その怒りに満ちた1行には企んだところがなく、そのため皮肉な歌にならずに済んでいる。暗黒の海で座礁するか、欲望の波に呑まれるか。現代社会はいい加減な海図の上に記された場所に向かって航行を続ける。しかし、その航海から帰ってきた者はいない。愚か者の船には乗りたくはない。その船で「明日」に向かいたくはない。
誰もが抱く感想だろうが、「スーパー・ナチュラル・ウーマン」はジョン・レノンのことを思い出さずにはいられない曲だ。歌のテーマも歌い方もサウンドも、この曲から聞こえてくるすべてのものがジョン・レノン的であり、まるでジョンが新曲を携えて戻ってきたかのようだ。そんな強力な曲なので、佐野の背後で微笑むヨーコの姿も目に浮かぶという難点 (?) もある。
気がつくと、スピーカーからはまた「Zooey」が流れている。ほとんどブルースと言っていい、狂おしいまでのハードなロックンロール。やり場のない感情を撒き散らすように、佐野は社会の現実をリアルにうたう。そして、生きる歓びと人間的なつながりを回復させようと心を砕く。ゾーイーがフラニーに対してそうしたように。
コヨーテ・バンドについても書いておきたい。このバンドはいつも、どこか抑制された、あるいは手袋をはめたような演奏に終始していて、まとまってはいるが、こぢんまりしている、といった感じだった。しかし、『Zooey』を聴く限り、それはもう違う。ここには彼らの大きな成長が見て取れる。コヨーテ・バンドには高度なテクニックを持ったミュージシャンはいないが、深沼元昭にも高桑圭にも他のメンバーにも、それぞれに得意とする感覚やスタイルがある。佐野の号令で演奏がはじまると、ときどきそこにはっとさせられるような感覚の合流が起こる。それが真のバンドというものであり、この数年で彼らにもそれが期待できるようになった。
佐野は数多くのすぐれたセッション・ミュージシャンたちとスタジオで音楽を作ってきたが、彼の音楽的基盤はつねにバンドという形態に置かれていた。だから、佐野にとってバンドというのは、単にツアーに出るための身支度のようなものではなかった。彼のバンドは、つまりザ・ハートランドも、ホーボー・キング・バンドも、そしてコヨーテ・バンドも、個々のメンバーよりも巧いミュージシャンの集合体と競っても十分に張り合えた。いや、勝つことができるし、実際、勝利を収めてきたのだ。
窓の外が明るくなりはじめた。昨夜からもう何巡目か、アルバムはまた最後の曲「Zooey」に入って行こうとしている。《誰もが誰かに ただ愛されたいだけ》。言いわけが一切ない3分間のロックンロール。ギターとオルガンの残響の中で「Zooey」が終わると、ふーっとひとつ息をついて、また1曲目のプレイボタンを押す。「世界は慈悲を待っている」を貫いている輝くようなビートが、聴く者の肩を叩く。《欲望に忠実なこの世界のために 静かにその窓を開け放ってくれ》と、シニカルな調子で佐野元春がうたっている。そのラインの間にGraceという言葉がそっと置かれている。“3.11以後”に作られた最初の佐野元春のアルバム。苦悩や哀しみに満ちているが、そこにはそれと同量かそれ以上の希望と決意が込められている。