b.c.
「Zooey」には2つの死が潜んでいる。生命の死と愛の死。これに真正面から向かうことで、反転して命と愛が浮かび上がる。これには身を切り刻むような痛みを伴う。だが、死を乗り越えなければ、命と愛の重さを理解することはないのかも知れない。
最も直裁に表されているのが、「詩人の恋」。主人公はおそらく近親者の突然の死にぶつかり、死者と共に死んでいる。歩くこともできず、そよぐ風に身を預けているだけ。そしてそのまま1年以上が過ぎる。「La Vita…」の主人公2も、大きな嵐に巻き込まれ、海岸に打ち捨てられて、ようやく息だけしている状態に見える。
限界を超えた悲しみや愛の死に、ただ生ける屍として生死の海を漂う彼らが、再び歩ける日など来るのか?
彼らは(いや、私達は)大きな喪失の直後、その反動から、痛みを誤魔化す麻薬のように、何か周囲から多くの愛が向けられ、環境も短期間で良化するような、むやみな夢を描いていた。麻薬が切れると、死によって鋭敏になった目に、愛の薄い現実社会が映った。私達の生死より、自分の享楽。利潤。絶望が迫る。一体、何を取りかかりとして希望として生きていけばいいのか。ほぼすべての生命力を失くした私達が。
だが、希望は残されていた。もはや何の力もないと思われた私達の中に。外界の天候が何であろうとも歩く力があったのだ。
曲々で主人公が歩く姿が明確に示される。何か環境が良くなったのかと言えば、何も変わっていない。「世界は慈悲…」など、雪降る荒野を感じさせる。だが、自分の足で歩いている。
(死に限らず)大きな困難を抱え歩く私達に、曲々が支援する。「虹をつかむ人」や「詩人の恋」では、静かで優しいまなざしが向けられ、「世界は慈悲…」では祈りが響く。「La Vita…」では意識を失いかけている人の頬を叩いて大声で呼びかけているかのようだ。一人での闘いの中、自分の状況や心情を理解し働きかける曲に会って救われる思いになる人が大勢いることだろう。
「ポーラスタア」に至っては、宇宙が見守っている。歌詞は図抜けて辛い。死だろうが嵐だろうが要は「小さいこと気にするなよ。大丈夫、大丈夫」と言っている。慰みもなければ、憐れみもない。最後にハッピーエンドの希望が書かれているが、これは多分「これじゃあまりにも…」と思った作者がつけ加えたもので、当該者(宇宙)は「え、ごほうび? 特にない、ない」と鼻歌を歌っているに違いないのである。しかし、これほど勇気の湧く曲はない。ラウドな演奏(特に後奏)が心地良い。
一人の人の死(命)の重さ、周囲の悲しみの深さを私達は目の当たりにしたはずである。だが、次の瞬間から、そんなことより当座、GNPや売上を数%上げることの方が重要だと為政者や財界人が蠢き出し、メディアも同調した。そこまで行かなくとも、命を消極的に秤にかけた人は少なくなかった。「君といっしょでなけりゃ」で示されるように、根本の土台を破壊することの重大さに気付いていない。が、(普段円単位の節約をしているにも拘わらず)多くの女性達は最優先すべきは「命」だと言った。命を生み、守り、育て、つなぐ者として、本質を生まれながらに直感的に知っているのではないか。「スーパー・ナチュラル・ウーマン」には、そんな羨望に似た思いを感じる。
もう1つ、「愛(の死)」の話があった。死と言うより、断絶があり、問い直しが行われたように感じる。死を想像しない生は弱い。絶望を経ない希望は弱い。では、愛は。
作者は結局、愛は何だと言っているのだろうか。「Zooey」のあの歌詞の羅列にある? あるいは他の曲で縷々書かれていることが。一歩退いて俯瞰してみる。何よりも、祈りを込め、忍耐し、歌詞を紙に書き付け、ギターをつまびいている彼の姿こそが、「愛」ではないか。
P.S.「愛は生命力である」という啓示を受け取った。