太母神、そして奇跡のようにここにある「命」
Midori.A
「まるでアメリカの小説を読んでいるようだ。」 アルバムを聴いて最初に感じた事だった。
佐野元春の紡ぐ歌は、詩片である。時には抽象、時には具象。次々と繰り出される言葉がめくるめく印象を残し、聞き手はそこから想像力を膨らませ、その奥にソングライターからのメッセージを読み取ろうとする。私見だが、佐野元春の詞で特に強い力を持つのは、名詞だ。「優しげに眠る池の白鳥」というとき、「道端のサンディ・ペーパー」というとき、「朝日のあたる家」というとき、「冷たくなったレモンティ」というとき。形容詞や動詞でなく、まして直接感情を表す言葉でなく、ごくありふれた名詞を使いながら曲のイメージを固めていくその語の選択の確かさは、とびきり感覚の優れた詩人のそれだ。彼の歌がメロディのついたポエトリーだということに異を唱える人はごく少数だろう。
しかしながら新作を聴いた私は、今度の作品は今までになく散文的、言い換えれば「物語的」だという印象を受けた。アメリカのビート小説、あるいは50年、60年代に書かれた小説のイメージ。それは「ビートニク」という語そのままを冠する歌が含まれていることや、「詩人の恋」「食事とベッド」というタイトルだけで物語的想像力が大きくふくらむ曲、またサリンジャーの登場人物とも重なるアルバムタイトルが、そうさせたのがひとつの理由だろう。
さらにもうひとつの理由が、「愛のためにできたこと」の描写。
”愛してると君は言う でも信じてるとはけして言わない”
”運命のひとと君は言う 会う人の度にそう言う
君はただ 昔みた夢をうまく隠したいだけ”
”でもきっといつかは誰れかが 真実を知るだろう”
(佐野元春 作詞・作曲「愛のためにできたこと」より一部引用)
ここで書かれた「君」のキャラクターが、私の頭の中で、今までの佐野元春にはなく具体的な像を結ぶのだ。かつて描かれた女性「ジャスミンガール」も「ありふれた娘」も「レイナ」も、描かれたのは外側だけだ。外側の第三者からみた彼女と、彼女の行動。それは顔のない人物像となり、自分の知っている誰か(あるいは私)に重ね合わされる。一方「愛のためにできたこと」の彼女は、独立した強いキャラクターをもって、言い換えればひとつの顔をもって、曲の中ですくっと立っている。これは今までの…少なくとも初期3作のアルバム以外では…初めての創作手法ではないだろうか。
今度のアルバムを「今までより分かりやすいストレートな語り口」だという評をいくつか見かけたが、それもまた散文的に感じる理由なのだろう。(もっとも、一旦散文的だと思い込んだ後に聞き直してみると、以前と変わらぬ詩作の手法でのアプローチの作品の方がむしろ多いことに気付いたのだが。)
もうひとつ、新作『Zooey』を聴いて感じたことは、「生命」をめぐる様々な角度からの佐野元春の考察だ。
それを最も端的に表した曲は「スーパー・ナチュラル・ウーマン」だろう。正直、初めてこの曲を聴いた時はギョッとした。なぜって、私たち現代に生きる女性は「母性は個性を殺してしまうもの」だと反応するようにプログラムされているからだ。子供を3人育てている私でもそうだ。母性とは本当はそういうものではないことを理解してはいても、母性への賛歌には反射的に身構えてしまう。人によっては、より強い反射を起こしてしまってもおかしくない。
ところが、二巡目にこの曲の番が来た時には、思いもよらず素直に受け入れることが出来た。なぜかといえばその時この曲から立ち現れてきたのは、命つかさどる大地の母、「太母神」のイメージだったからだ。生きた人間というよりむしろ、プリミティブで宗教的な象徴としての女神。そんなイメージが浮かんできたのも、例の野卑な言葉を直接使っているゆえなのではないかと思っている。隠し事のないその表現が、太古の原始的生命礼賛を想起させたのだろう。もちろん、この曲の底抜けに明るく楽天的なメロディが後押ししていることは間違いない。
イタリア語に明るい訳ではないが「La Vita è Bella」のVitaは『甘い生活』の生活や人生という意味以外に、英語の’life’と同じく「生命」という意味があるのではないか。生命そのものも美しい、と。
そして私にとって最も印象深い曲、『君と一緒でなけりゃ』。
阪神大震災後『満月の夜』という曲を作る時、中川敬は震災を内からの視点で、山口洋は外からの視点で歌った。
東日本大震災後、猪苗代湖ズは「I love you ふくしま」とシンプルな言葉で歌った。それは彼らが福島を内から語れる立場にあるからだ。「愛している」というひとことだけでも、寄り添うことが出来る。
一方、佐野元春の『君と一緒でなけりゃ』は震災を、原発事故を、外から歌った歌だ。
どんな進歩的な未来も、嬉しくない。もし君と一緒でないならば。
外に立つ人間が「愛している」といったとき、猪苗代湖ズと同じように素直には受け入れてもらえるとは限らない。しらじらしく聞こえてしまうかもしれない。だが、「君と一緒でなけりゃ」というひとことの説得力といったら!そして私たちは思い知るだろう。被災地をとりまく現状を考えた時、一番あるべき、かつ足りない視点が「君と一緒でなけりゃ」だと。まるで何もなかったかのように、政治が、経済が、欲望に歪んだ状態に戻ろうとしている。傷ついた人たちを置き去りにして。
「詩人の恋」では、生命と対になる概念である死が歌われている。この曲では、私の好きなニール・ヤングの「Beautiful Bluebird」を思い出してしまう。そうそう、先に書いた物語的な映像をこの曲も喚起させる。こんな事を言ってしまうと銀髪のライオンはどう思うだろうか。だけど、佐野元春も、よりストレートに死について歌うことが身につく歳になったんだな、なんて生意気にも思ってしまう。
「生命」に関しては、アルバムタイトル『Zooey』は ”zoe=いのちを語源とする”とあることからも、このアルバム全ての曲に強く流れているテーマであるのが明らかだが、すべての曲に関してはとても書き切れない。ただ、これだけは記したい。私たちのあのいとおしい詩人はきっとこう言いたいのだ。まるで奇跡のようにここにある「命」を愛でくるんで、大事に慈しんでいこう、と。
あれっ、とりとめもなく書くうちに、ずいぶんと長文になってしまった。(おまけに、細かいところまでつっつき回す、随分と生意気な素人の批評家気取りだ。大審問官並みの長ったらしさと独善だね、ヘッ、ヘッ!)
思い浮かぶ断片を書き言葉に直してみたけれど、実際には、毎回アルバムを聴きながら、こんな分析をしている訳じゃあなくて。だってほら、ここに書いたことはみんな、詞の観点からのみで語ってみたこと。ほんとうは、そんな解釈、ちっとも必要ないのかもしれない。なぜなら、この『Zooey』が、とびきりポップなアルバムだから。その弾むリズムに身を委ねて、自分の抱えるブルースをつかの間忘れる。そんな聴き方のほうが、おそらく、よりしっくりくるだろう。
だって、このアルバムとは、これから長い長いおつき合いになるのだから。
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