コヨ−テの回想では、ゾ−イ自身も当時制作に関与したコヨ−テのニュ−ヨ−クでの作品『訪問者たち』から「日曜の朝の憂鬱」をカバ−し、アレンジを変えて歌っていたと言う。
「日曜の朝の憂鬱」・・・・作品に収録された楽曲中、唯一のバラ−ドであり、次のような詩。
ときどき、なにもかもがリアルじゃなく見えてしまうとき
いてついた「心」君にかくしてしまうのさ
ときどき、夜が訪れて街の灯りがともるころ
うつむいた「心」君にかくしてしまうのさ
ときどき、すべてがなんとなく無意味に見えてしまうとき
いてついた「心」君にかくしてしまうのさ
なぜだろう。なぜだろう
小鳥たちもさみしそうさ
・・・君がいなければ
まるでセンチメンタルなプラネタリウムさ
・・・君がいなければ。
やがてこの街に冬が訪れる
・・・君がいなくても
世界はこのままなにもかわらない
・・・君がいなければ
(佐野元春 作詞・作曲「君がいなければ」より一部引用)
他者を理解し、ありのままの思いを伝え、ともに生きていくこと。たやすい事のようだが、プライドやコンプレックスが邪魔して、実際には難しい大人のコミュ二ケ−ション。それでも、大切な人が傍にいなければ、生きることの喜びは無いに等しい。世界も色あせてしまう。甘いメロディ−に乗せ、マンハッタンの人や街の情景描写も織り交ぜながら「日曜の朝の憂鬱」は、語りかける。曲調や詩の表現は異なるが、新作『ゾ−イ』の楽曲「君と一緒でなけりゃ」のメッセ−ジに近いと言える。
人間なんてみんなバカさ!と吐き捨てながらも、その絶望の中で「君と一緒でなけりゃ」と憂う。絶望は君が一緒にいることで希望にかわり、この世界で生きていけることにつながる。
ゾ−イは、ソングライタ−として荒地を旅する表現者の一人だった。その長からぬ生涯の中、80年代のマンハッタンにおいて東洋からやってきたというコヨ−テ(ライオン)と運命的に出会った。ゾ−イにとって、普遍的な人間の感情をテ−マにした「日曜の朝の憂鬱」は、たとえ無責任なメディアの狂言/世間の偏見/為政者の不寛容にとりまかれようとも、どこまでも人間の明るい側面や発展的なモメントを見失わぬよう心に決めて、人間性の美しさを愛し、知性による説得の可能性に信頼をかけようと格闘した『訪問者たち』の心の叫びであり、コヨ−テから受け取った美しい人間性を探求する言葉の花束だったのかもしれない。
ゾ−イにまつわるエピソ−ドは他にもたくさんあるが、若すぎる彼の死によってその多くは確認する術もなく、ここに記したことも事実かどうかは疑わしい・・・
今日もまた、コヨ−テはニュ−スペ−パ−をぼんやり眺めた後、ベ−コンとアボガドのサンドイッチを頬張り、旅の支度を整える。腕には1週間で10分ほど狂う古びた自動巻きの時計。その秒針が、この不確かで憂鬱な世界にリアルな時を刻み、踏み出した足もとから新たな歴史の幕が開けられる。世界の果てにたどりつくまで、誰もコヨ−テを止めることはできない。その先にある光景が絶望や憂鬱にさいなまれていようとも。まだ見ぬ荒地の住人にデイジ−の花束を贈り、その花の種を音楽や詩の表現とともに大地に植える孤独な旅。コヨ−テは、ゾ−イがそうであったように、このロング・ワインディングロ−ド(長く曲がりくねった道)に、かつて一度も退屈したことはない。