境界線を越える決意と、その行く先を照らすもの
浅倉卓弥

 開幕のピアノのラインからもうぞくぞく来た。イントロだけですぐ、あの『ヤング・ブラッズ』や『約束の橋』を髣髴とさせる、極めて佐野元春らしい乾いた清々しさが立ち上がって来たからだ。
 新作『BLOOD MOON』の冒頭を飾った『境界線』は、リリクスの一行目が示す通り決意表明の歌である。もっともそれはむしろ、行く先の見えない旅路へと改めて向き合う覚悟のようなものなのかもしれない。
 知っている事のすべて、夢見る力のすべて。曲半ばに登場するこの表現だけでもう唸るほかはないのだが、それらと引き換えにしても、どうしても乗り越え、向かっていかなければならない場所がある。獅子はそう、今や新たな盟友となったコヨーテたちを従えて、クールにかつ高らかに歌い上げながらニュー・アルバムの開幕を宣言する。
 そしてその決意の裏側に秘められた優しさを描き出しているのが、おそらくはこれに続くタイトル・トラック『紅い月』なのだろうと思う。

 それにしても、まず触れられなければならないのはこのアートワークだろう。それぞれの頭上に十を超えた数の木製のキューブを、それこそダモクレスの剣よろしく、危ういバランスで積み上げたまま進んでいく複数の男女の後姿。中央には崩れ落ちてしまった自分の積み木を前に、青いシャツの人物があからさまに嘆きを露わにしている。
 彼らの立つ地面には植物の緑によって幾何学的な構図が敷かれ、遠く菜の花と思しき鮮明な黄色が引いた地平の上に広がった空は、晴れ間を覗かせてこそいながらも、やがて重い灰色を兆した雲に覆いつくされようとしているかに見える。
 この構図、実に見事にアルバム全体のテーマと呼応し、しかも一つのイメージとして極めて強力である。率直にいってこんなジャケットは久し振りに目にした。これ、70年代のあのヒプノシスの仕事を受け継いだ、STORM STUDIOなるデザイン・チームの作品なのだそう。大きく首肯する以外何もできなかった。
 では本作『BLOOD MOON』のテーマとはいったい何か。あるいはこの問いは「紅い月」が表象しているものとは何なのかと問いなおされるべきかもしれないが、以下収録曲を順次追いながら、少しでもそこに迫れればと思いつつ稿を進めさせていただくことにする。

 これは前作『ZOOEY』とも共通する特徴なのだが、本作でもまた、今世紀に入ってから発表された『THE SUN』『COYOTE』の両アルバムにおいて顕著だった、世界=荒地という比喩が姿を消している。荒地とは人が立ち向かうべき果てなき荒野であり、それは時に、宵闇の中でじっと夜明けを待つ場所としても描写されてきた。
 もっとも前作『ZOOEY』の全体が、いわば等身大の佐野元春個人というものに可能な限り寄り添おうとしていたのに比べると、本作『BLOOD MOON』では、世界という存在はむしろかつてなくヴィヴィッドになっているように思える。
 荒地の語とそれに付随した種類の表現群の代わりに導入された、最早比喩の域には留まらない、より具体的で強烈なイメージの断片たちが、おそらくは荒地と同じ種類の光景を一層鮮明に、それどころかある種の皮膚感覚さえ伴いながら迫ってくる。
 思い起こせばあの『ロックンロール・ナイト』で、この「ルーズにみじめに汚れた世界」の中で日々繰り広げられる「すべてのギヴ・アンド・テイクのゲーム」に真っ向から疑義を呈して見せて以来、佐野元春は繰り返し、僕らの日常の背後に潜んだ不可視のシステムに対して異議を申し立てることを止めようとはしてこなかった。その姿勢は本作でも貫かれているといっていい。
 「荒地」の語が決して人の意のままにはならない世界なる存在の、その一つのシンボルとして機能していたとするならば、本作ではいわばさらに焦点が絞られ、不可分にそこに絡みついた人の意思、あるいはエゴが、とりわけ後半に収録されたトラックにおいて、時に強烈過ぎるほど執拗に炙り出されているようにも思える。

 開幕の『境界線』からタイトル・トラックを挟んで登場する『本当の彼女』『バイ・ザ・シー』の二曲は、曲調こそまったく異なってはいるものの、まるで対になった合わせ鏡のようにも響く。
 佐野元春らしく随所に「君」の二人称を用いながら、トラックの全体はまるで三人称の小説ででもあるかのように、現代の都市に暮らす男女の姿をそれぞれに浮き彫りにして見せる。刈り込まれた言葉たちの合間に不意に覗く、ぎりぎりシニカルにまではなりきらない視点がその像を一層鮮明にする。もちろん僕は君たちに寄り添っていくつもりだ。だけど本当にそれで大丈夫なのかい? そんな問いかけが背後に潜んでいる気がする。
 続いて登場してくる『優しい闇』から『新世界の夜』にかけてもまた、サウンドのスタイルは変幻自在に行き来する。バンド・アレンジの方法論の一層の深化が随所に感じられる。しかし一方で、この辺りから少しずつ冒頭の二曲、とりわけタイトル・トラックに垣間見えていたある種のジレンマに似た手触りが、リリクスとサウンドのバランスの中に次第次第に甦ってくるようになっている。
 とりわけ『新世界の夜』のコード・ワークとサウンド・メイキングは、個人的には相当好みである。アンヴィエント・ミュージックにも通じる奥行きのあるサウンドと、決して早くはないテンポ。単純にバラードとも呼びきれない独特の美しさを感じる。
 ところが佐野はこのトラックに、むしろ辛辣といってもいいような種類の言葉たちを載せて提示してみせる。世界を動かしているもの。それは悪意であり正義であり言葉であり暴力であり、その姿は野蛮なのだと形容される。待っていても、争ってみても何も変わらない。皮肉とも取れるこのリリクスが不思議な浮遊感と共に宙にこぼれ出す。
 ここに至って否応なく僕らは、本作の冒頭に開示された決意の意味を、そして越えなければならない「境界線」の正体を、おぼろげにながらもどうにか想像しなければならなくなってくる。

 今回はクレジットに明記こそないけれど、おそらくはPART2という位置づけであろう『私の太陽』からの四曲をかけ、佐野元春は指弾の矛先をさらに研ぎ澄ませていく。
 後半の開幕を告げるのはタムを駆使したアフロ・ビートである。壊れたビート、慣れたビート。佐野の繰り出すこの言葉にリズム隊がまた絶妙の呼応を見せる。そしてこの『私の太陽』もまた、不確かで不公平な世界への告発という側面を失うことはしていない。
 次の『いつかの君』はストレートなハード・ロックといっていいだろう。この曲もやはり同じスタンスを継承している。君という二人称を用いながらも、同曲がまるで、佐野が自分自身を改めて鼓舞するためにこそ歌い上げているように聴こえるのは、はたして僕だけの錯覚だろうか。
 そして後半の中核を為す『誰かの神』『キャビアとキャピタリズム』の両曲においては最早、佐野はサーカスティックであることを一切隠そうともしていない。「聖者を気取っている人」「うわっ面の罪」「誰かの都合」「資本原理主義」「役人たち」「宣伝文句」等々、繰り出される言葉たちはあの『シェイム』をも凌駕する勢いと直截さとを有している。とりわけ『キャビアとキャピタリズム』は本作最大の問題作といっていいだろう。
 ここに表出しているのは、怒りあるいは憤りと形容するしかない種類のものである。しかもその対象はかつての佐野の作品群には決して見られなかったほどの具体性を帯びて綴られている。
 だが翻ればこの衝動こそがまさに、ロックンロールがその開闢から根源的なエネルギーとして保持し続けてきたものでもあったはずだ。このトラックで選ばれている二本のギターの音色は一層その思いを強くする。この曲の登場は、やはり開幕の『境界線』の決意とどこかで呼応しているのだと思う。

 3.11を一つの境とし、この国で何かが変質した。あの震災以降の佐野は、随所で自他ともに向け、音楽にはいったい何ができるのだろうという問いを繰り返し発してきた。おそらくこれは、今この時代に必要なロックンロールとはどういうものなのかともいい換えられる命題でもあるはずだ。
 今の時代。すなわち、不確かなことだけが確かでしかないような世界で、頭上に壊れ物を抱えながら歩き続けていかなければならないような日々。その絶え間ない連鎖。
 だとすれば、先の問いに対して準備された佐野元春の一つの答えが、おそらくは本作なのだといってよいのだろうと思う。
 ヘヴィーなエッジを持った言葉たちを、ストレートでかつ繊細なメロディーと、タイトでタフなバッキングとによって、立体的にかつ複層的に提示して見せること。そういった手段で見えないものをどうにかして暴くこと。本作の全体が目指し、たどりついたのはそんな境地なのではないだろうか。

 ラス前の位置に収録された『空港待合室』もまた、その穏やかな開幕を裏切るようにすぐさま姿を一変させ、明らかに前の二曲の流れに連なったヘヴィーな展開をつきつけてくる。前作『ZOOEY』のタイトル・トラックにも採用されていたシンプルなパワー・コードによるギター・サウンドが、より徹底した姿で披露されてくるのである。曲の最後でシンバルの刻むビートに載ったギター・ソロは極めてクールだ。
 クロージングには、名曲といっていいだろう『東京スカイライン』が置かれている。遅い午後の夏の太陽が、まるで夢や文明までをも道連れにしながら、鮮やかな青の中へと沈んで行こうとしている。切り詰められた言葉はそんな光景を描き出す。
 けれどそこに悔恨めいたものはない。むしろトラックから立ち上がるのは、諦めに似てそれとは大きく異なった種類の静謐さだ。効果的に導入されたマンドリンのラインがその印象を巧妙に補強する。改めて佐野元春という人は、本当にいつもいつも、なんて綺麗な幕引きを準備してくれているのだろうと、そう心底思う。

 一連のコヨーテ・バンドとの作品において共通しているのが、アルバムという形式への頑ななこだわりであることはたぶん間違いがないだろう。同時に各トラックごとに試みられてきたのは、誕生以来ロックというものが生み出してきた様々なスタイルの、時代に呼応した佐野元春なりの解釈なのだろうと、個人的にはそのように把握している。
 だから僕は、冒頭に触れた佐野元春の決意のある部分とは、アルバムという様式美を、引いてはロックを、そして音楽を、改めて自らの手で継承していこうというものではないのかと想像している。
 そしてこの決意のもう一つの側面は、時代を暴き出すことに躊躇をしない、むしろそれこそが音楽の、ロックの役割なのだと、その姿勢を改めて声を大にして顕にすることだったのではないかと、本作を聴き終えた今そんなふうに感じている。

 そういったことを考えた上で改めて『紅い月』へと目を戻してみる。この曲はあたかも佐野自身が、自らとともに歩んできたすべての人々へと向けて語りかけているような始まり方をする。同時にフレーズの一つ一つに単なる回顧に留まらない慈しみが感じられる。キャッチーといっていい種類の展開もこの印象を支えている。
 けれどサビの後半で繰り返される一節は、正直いってあまりらしくない。
 ── 夢は破れてすべては壊れてしまった。
 字面だけだと、単にすべてが否定されてしまったようにしか思えない。
 ところがこのセンテンスは、むしろ極めてポジティヴといっていい種類のメロディーに載せられているのである。だからこそ、直前に出てくる「紅い月」のイメージが、悲嘆とか諦念とかあるいは不吉さとか、そういったものとは真逆の位置に置かれて響く。
 振り返れば実はアルバムの全体に、この種の二律背反が巧妙に仕組まれていたことに気づかされざるを得なくなる。 ラテンのビートで刻まれた閉塞感。朗らかで陽気でしかもメロディアスな疑念。そしてヘヴィーなマイナー・スケールに載せられた郷愁。だからおそらくはこれらの仕掛けが、一つ一つの楽曲を極めて特異な手触りに仕上げる小さくない一助となっているのだろう。
 いうまでもなく『BLOOD MOON』の全体は良質なダンス・ビートであり、極めてストレートなロックンロールだといえる。そしてそのストレートさは、精緻に考え抜かれたソングライティングと、それからコヨーテたちの確かな演奏と創意とをもって緊密に仕上げられたが故のものなのである。

 月はもちろん闇夜を照らすほとんど唯一の明かりである。血の色をしたそれが最初の一瞬はある種の凶兆のように見えたとしても、光が光であることにはなんら変わりはない。
 それは何もない場所から見つけることのできる唯一の希望なのかもしれない。そしてまた「紅」の色に密かに託された生命の象徴の意味合いが、実はこの点をしっかりと裏付けているのではないだろうかとも推察できる。
 無論こういった内容はすべて、所詮僕が個人的に読み取って改めて組み上げた一つの物語に過ぎない。むしろ聴き手の数だけ解釈があることこそが、音楽の、引いてはアートの本来の姿であろう。
 本作に一人でも多くの人々が触れ、一つでも多くの物語がそこに描かれていくことを心から望む。それはやがて個々の中で現実を侵食する力ともなっていくことだろう。
 何故ならば、優れたアートというものはその種のパワーを潜在的に持っているものであり、そしておそらく佐野元春の決意とは、作品にそれだけの息吹を吹き込むことによって一歩ずつ前に進んでいくものなのだろうと思うからである。その道のりを照らし導くものこそが、タイトルに掲げられた命の色をした月なのだとまでいいきってしまえば、これは些か予断が過ぎてしまうことになるかもしれないけれど。

 なお、本稿はあえて歌詞に主眼を置いて起こしたけれど、もちろんコヨーテ・バンドと一体になって生み出されたサウンドは、全編を通じ一切の妥協を感じさせない、極めてシャープで心地好い仕上がりとなっている。最後になったが、改めてこの点だけはきちんと念を押しておくことにしようと思う。