ロック詩人の聡明な野性を讃えて 
志田歩

2015年の日本。
今はもはや平時ではないのかも知れない。

東日本大震災があった2011年以降、僕らが馴染んできた世の中の仕組みは、さまざまな現場で綻びを露呈するようになってしまった。
マスメディアにもさまざまなプレッシャーがかけられている。
まともでいようとすることにすら勇気が必要な時代だ。

こんな時、ポップ・ミュージックにできることは何だろう?
一瞬だけでも忌まわしい現実を忘れさせ、甘美な幻想を提供することだろうか?
それともポリティカルなメッセージを掲げてリスナーを鼓舞することだろうか?

おそらく佐野元春は『BLOOD MOON』の制作にあたって、そんなことを考えていたに違いない。

ヒントはいくつかある。
今年5月7日。
彼は沖縄の辺野古を訪れ、「米軍基地問題で、また、この地が引き裂かれている。」というコメントを発した。
さらにその3日後の5月10日には、本作の収録曲でもある「優しい闇」を、 「柔らかいファシズムの元に生きる恋人たちの唄」という言葉を添えてネット上で発表している。

とはいえ結論は急がないで欲しい。
本作は決してポリティカルなメッセージをアジテートするプロテスト・ソング集ではない。
むしろ先に揚げた二律背反のように捉えられがちな命題を止揚することで、 ポップ・ミュージックの有効性を更新した画期的な作品であると僕は思う。

例えば「バイ・ザ・シー」の主人公に注目してみよう。
彼は格差が拡大していく今の日本の片隅で、仕事を探そうとしている。
だが奮闘にもかかわらず一日は徒労のうちに終わる。

僕らは構造的な不況に苦しんでいた70年代後半のイギリスで始まったパンク・ロック・ムーヴメントが、 爆発的に広がっていったことをすでに知っている。

だが「バイ・ザ・シー」の主人公は、パンクスのように攻撃的なアクションを採るわけでもなければ、 国会議事堂を包囲するデモの隊列に参加するわけでもない。
彼はあせっているが、何もかもが面倒になって眠ってしまう。
そして週末には海辺のコテージに出かけて充電する。
彼がそこから新たな展望を開けるかどうか、曲の中では提示されていない。
だが落ち着きに満ちた親しみやすい曲調からは、彼の存在そのものを慈しむような気配が感じられる。

さらに僕が驚愕したのはアルバムのタイトル・トラック「紅い月」だ。
言葉だけでとらえると、この歌詞の結論はこうなっている。

 夢は破れて
 すべてが壊れてしまった (「紅い月」)

日本のポップ・ミュージックの歴史の中で、ここまで身も蓋もない、
それどころかもっともらしいオチもなぐさめもない歌詞があっただろうか?
だが一見無慈悲とも冷酷とも取れる歌詞とは裏腹に、
この曲から確かな温もりやポジティヴな気配が伝わってくるところに本作の凄みがある。
役に立たない予定調和的な楽観論など、もはや誰かの都合で作られるフィクションに過ぎない。

 誰がマトモに聞くもんか! (「キャビアとキャピタリズム」)

佐野元春は現実の中で悪戦苦闘している人に対して、闘えとは言わない。
ただザ・コヨーテ・バンドの放つとびきりシャープなサウンドに託して、優しげな眼差しを投げかけている。
そしてシヴィアな現実を冷静に観測したうえで、こう歌う。

 大事な君
 心を偽らないで
 どんなときも
 ここで闘っているから (「紅い月」)

佐野元春は安易な慰めは口にしない。
闘えと人を鼓舞することもない。
ただ何もかも変わってしまった現実から目を逸らさず、状況を冷静に観測する。
そして心を偽らないシンガー・ソングライターとして彼の現場で闘っていると述べる。
寸止めで甘い言葉を削ぎ落としているからこそ、
揺らぎの無い確信に満ちた誠実さが、ストレートに胸を打つ。
彼の確信の深さは、アルバム後半でこんなふうに立ち現れる。

 いつかの君は世界を変えようと
 どこか生き急いでいたかのようだ

 どんなペテン師がそこにいたとしても
 確かな君は惑わされない (「いつかの君」)

“いつかの君”とは一体誰なのだろう?
もちろん佐野は様々な解釈ができるように慎重にこの言葉を選んだのだと思う。
ただ僕には、その中に「つまらない大人にはなりたくない」と歌っていた 20代の佐野元春本人も含まれているように感じられてならない。
そんな解釈の続きを許してもらうならば、“確かな君”とは、
聡明な野性を携えて誠実にキャリアを重ねた末に確信を獲得したロック詩人、 佐野元春の現在の姿でもあるだろう。

2015年7月、僕は佐野元春から『BLOOD MOON』を受け取った。
これから先、いったいどんなことが待ち受けているのか。
気を許すことはできないが、僕も自分の場所で闘っていきたいと思う。

 この街の夏が過ぎてゆく (「東京スカイライン」)

2015年7月16日に記す。

*この日、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案が、衆議院を通過した。