『BLOOD MOON』評のための、言葉による徒労
原田高裕
キャビアとフォアグラとピケティの区別もつかないバカなオレだけどさ、人間の尊厳の大切さくらいは知ってるぜ。どうせ、おまえはそんなことも知らないんだろ、肝に銘じたほうがいいぜ、その愚かさ。そりゃそうさ、おまえの社会は、自己責任という、もっともらしい便利なへ理屈で、声の小さな母と子を風俗業が用意した寮や託児所に送り込んでるくらいだからな。七十年間、驚異的な戦後復興を果たし、物質文明の極みを謳歌してきた国のセーフティネットとやらが、このざまだよ。何が、女性が輝く社会だ。正気かよ。格差社会とか言ってるけどさ、それがこれからのおまえの社会にうってつけだってこと、わかってる? これからは、おまえが住み暮らす地の人々が、エリートと落ちこぼれとに計画的に引き裂かれるんだ。計画通りに、思惑通りに、淀みなく、つつがなく。一方は、奸計をいたる所に張り巡らし、権柄と溢れ出る資金をもって支配する。もう一方の無辜の民は、口先だけは慇懃丁寧な役人と妙な役者によって、善良なる市民という名の下に唆され飼い慣らされ傀儡人形に成り果て、仕方なく自ら軍隊に志願さ。これからも見て見ぬふりを続けちゃうわけ? 別にいいけどさ、それがおまえのやり方ならね。ドゥー・ホワット・ユー・ライク、勝手にすれば。
むかし、むかし、世界劇場の舞台の上で、チェリーパイと窓とが仲良く戯れていました。あの人は歌っていました、窓の向こう側を眺めながら。《僕はどこにでも行けるさ/けれど僕はどこにも行けない》と。そしていま、チェリーパイの兄弟の紅い月が、夜空に浮かんでいます。私はよく知ってますよ、あなたを大事に思う人が、今日もあなたのために戦い続けていることくらい。でも、すべては壊れてしまいました。夢も破れてしまいました。寓話でもなんでもありません、ほんとうにそうなんです。でも、ものは考えよう。諦念と覚醒の時とは、こう捉えることもできます。紅い月の時とは、月と太陽とが重なる時。つまり、ニュートラルな時空なんです。どこにでも行けるし、どこにも行けない。要は、あなたたち次第ってなわけです。崩れるか、持ちこたえるか、自壊するか、遁走するか、座して滅びを待つか、次の角を目指すか。さて、あなたたちはどうするんでしょうね。私は高みの見物としゃれこむことにしますよ、海の側で陽光を浴びながら。
ど真ん中をいくためにはさ、どうしたって反逆が必要なんだよ。フロリータやコケ、そう、あいつらがその人生を賭して楽園を目指したようにさ。反逆の先には、いくつかの境界が、手ぐすね引いておまえを待ち構える。新しい人になるには、ほんとうのことを知るには、その境界に向かわないといけない、越境しないといけない。ビビることはねぇよ、ちょっとしたコツがあるのさ。境界線は、越えるというよりボカすんだ、無効化するんだ。そもそも、ほんとうは境界線なんて無いことが、ほとんどだぜ。連中たちの都合に則って勝手に線引きされたのが、ほとんどだからさ。ニセモノの線を跨ぎ越えたところで、何も変わらねぇよ。野獣どもが端正に拵えた「まやかし」を封印しなよ。反逆の精神を培って、少しだけ賢くなって、夢見る力のすべてを使えば、境界線をボカすくらい、わけねぇよ。そういえば、あの人は昔こう言ってたな、Be twisted! って。うまいこと言うよな。
なぜ、人は海へと向かうのでしょうか。いくつかの、もっともらしい理由があるそうですよ。血液と海水の成分は、そっくりだということ。心臓の鼓動と、寄せては返す波のリズムとは、深い関係があるということ。スピリチュアルなものを含めると、まだまだたくさんあることでしょう。かくいう私も、荒地で満身創痍のボロボロになって、己と世界の再生をお願いするため、海へ向かいました。撃ち抜かれてしまいましたけどね。なぜ、人は海へと向かう時、音楽を道連れにするのでしょうか。サンタナとかマロとかマナサスとか、その手のやつを。それは、大切な人と、静かに楽しい時を過ごしたいからですよ。ラテンビートで静かに過ごす、このギャップがたまらないんです。オトナのたしなみです。そして、生の根源である海に行けば、わかったつもりになれそうな気がするんです。私の過ちを許してくれた相棒が、ほんとうに欲しがっているものが。二人にとっての、愛の記しが。
悪意?正義?言葉?暴力? そんなもんじゃないんだよね、世界をかたちづくっているものは。人生の本質というのは。クンデラによると、それは「無意味」らしいぜ。《大切なのは、それを認めることだけではなく、それを、つまり無意味を愛さなくてはならないということだよ。無意味を愛するすべを学ばなくてはならないということだよ。ここ、この公園のわれわれの眼前に、見てごらん、無意味はまったくあからさまに、無邪気に、素晴らしく存在しているじゃないか》。炯眼だね、さすがは「存在の耐えられない軽さ」を、歴史という不可抗力に苛まれ漂流した男女四人の営みの描出を使って敷衍した男だよ。よくわかっていらっしゃる。永遠の回帰は、このうえもなく重い荷物なのか。永遠は不潔なのか。そんなこと、オレの知ったこっちゃない。オレは、公園に落ちている無意味や、ほんとうはバラバラなこの世界をなんとか一つに成り立たせている秘儀=ミステリーとやらが何ぞやかを、手応えをもって触れてみたいだけ。だから、「日曜の朝の憂鬱」を歌ってみたかったんだ。
さっき、手荷物受取場1番カルーセルで、カナダのSSWがギターケースを抱えて佇んでいたそうですよ。この前のアルバムに入っていた「Miracles」という曲、あれは泣けました。さて、私の次のデスティネーションはホットスポットです。生きものたちの最後の楽園? いいえ、言語のホットスポットなんです。あなたたちの惑星には、七〇〇〇近い数の語り口があります。でも、次々にそれらは消滅しています。トファ語のラストスピーカーであるマルタおばさんは、「もうすぐ私もベリー摘みに行くよ、その時はこの言葉も一緒につれていくさ」と語っていました。ちなみに、ベリー摘みは、死の隠喩なんですって。一〇〇人くらいしか話さないローカル言語なんて消えてもいいじゃん、英語でいいじゃん、べつに、ですって? はたして、そうでしょうか。言語の消滅は、知恵の消滅なんです。気候の変化、星座、薬草、伝説の怪物、世界の創世記……何千年をかけて積み上げられてきた知恵の滅亡を、ただ放っておいていいのでしょうか。ですから、私はこれから最後の話者たちに会いに行ってきます、あなたたちの知性を遙かに凌ぐ、豊かな知恵とは何なのかを確かめに。……さてさて、はたしてこれは、言語だけの話でしょうか。たとえば、日本のロックやら日本人とやらも、同じ運命を辿るかもしれませんよね。そうしたら、いったい何が失われてしまうのでしょうか。一度、想像してみる価値アリだと思いませんか? 崩れてしまった堆積を前にして、両手を広げて驚き嘆いてしまう、その前に。すみません、待合室でレコードジャケットをぼんやり眺めていたら、ついこんな妄想をしてしまって。
あなたは、「教皇インノケンティウス10世の肖像による習作」を見たことがありますか? あぁ、ウェブでチラ見した程度だけどね、あの叫んでるやつだろ。いやね、実は、その絵に似ている存在と、先ほどバッタリ遭遇したんですよ。あんな薄気味悪い奴って、ホントにいるわけ? そばにいた野獣の子たちは、あれはニホンジンだ、と言ってました。歩道の端で仰向けに倒れていまして、テラテラと光る粘膜のようなものが全身を覆い、滴り、何か変な臭いを発していました。金の臭い、そう、あれはニホンジンが平和と引き替えに得た、金の臭いなんでしょうね。紅い月の下、誰かを恨み、忌み呪うような呻き声を出しながら、うねうねと身体を捩らせていたんです。そう、ミミズです、真夏のアスファルトの上で灼熱に焦がされているミミズにそっくりでした。そして、口元ではフランシス・ベーコンの頭部の絵のように、声にならない叫びを発していたんです。ひでぇな、それは。野獣の子女は、嘲笑を浴びせ愚弄してました、ネトネトしているように見えて、実は嫉妬と欲望の業火に焼き尽くされ灰燼に帰した人間ども。ワタシたちは何もしてないよ、あいつら、勝手に自爆して灰になったんだ。灰や燃え滓をどれだけいたぶっても、罪はないよね。あのさ、そんなどうでもいい話、なんでオレにするわけ? あなたは、命と愛についてよくわかっている存在だと聞き及んでいます。何か、気の利いたコメントの一つや二つ、聞けないかと思いまして。灰の中でじっと耐えている気高く蒼い孤独の君に、何か伝えてあげたいなと思いまして。おやおや、光と闇を知り尽くしているあんたにしては、イタい凡ミスだな。それだったら、ヒナギク月に会いに行きな。でも、いまは紅い月の時だから、今頃あいつは太陽とこれからの世界について語り合っているはずさ。雲の切れ間から太陽と共に、積木をわざわざ頭に乗っけた人々を見ながら談笑してんじゃねぇの。もうちょっとしたら、またいつものように夜陰を照らし出すだろうよ。風と霧とを自在に操り、神話に生きるあんただったら、すぐに会いにいけるさ。なんか、オレもひさびさに会いたくなったな、あいつに。
彼は、若いのになかなか軼事に通じた男で、何かの流謫から舞い戻ってきたばかりでした。放埒な振る舞いながらも、該博な知識を有する具眼の士でもありました。世人を惑乱する謬見を論駁喝破する姿は、侠気に富んでいました。世界を変えようと、どこか生き急いでいたかのようです。そんな彼が、こんな独り言を延々と呟いていたんです。いま、この地に暮らす人々にとって、東京の風景は、どのように見えているのだろう。背景の空はどんな色をしているのか。遠望の先に見えるものは何なのか。タワー、スカイツリー、 副都心ビル群、湾岸エリアのウォーターフロント、都心の森の樹々、首都高の光の川、あるいは、ロジスティック曲線に描かれたようなプラトー、なんでもいいや、とにかくいまの東京の風景は不実だ。世界の中央銀行から吐き出された緩和マネーや、本来は復興予算だった税金が、とめどなく流れ込み濁流し、高層オフィスタワーや億ション、クソコラのネタになってる競技場やインフラ整備に姿を変える。こんな混濁の世は、もう十分だ。猟色家どもが恥知らずに撒き散らす体液のように白濁した光景には、もううんざりだ。それでも君は、この街に美しさを感じるんだろ。今日と同じような美しい日々が、これからもずっと続くって信じていたいんだろ。ほんとうは、すごいスピードで変わってしまっているのに。ほんとうは、気づいているのに。でも、そのほうが君にとっては幸せなのかもしれない。この曲をかけながら、天現寺入口から2号線、一ノ橋ジャンクションを左にカーブして、目指すは都心環状線霞が関トンネル。出口の坂を上った先を進めば、ど真ん中に鎮座し、そびえる国会議事堂。この光景こそ、二〇一五年夏の東京スカイラインに相応しい。去年のことは忘れたし、来年のことはわからない。物憂げで、優しく、恩情に満ちた曲だって? 耳の穴かっぽじって、よく聴けよ。この、すべてをのみ込んでいくような蜷局を巻くサウンド、紅く蒼く燃え盛る炎のような怒りを湛えたサウンド、雑然としていながらも、うねり捻れながらも、確固たる歩みで変革に向け行軍するサウンド。無数の支流が一つひとつ集まり大河を成し、滔々とした流れがすべてを押し流し、なぎ倒していく様が眼前に顕れないか。牧歌的なはずのマンドリンの調べさえも、そこらにあるものに片っ端から絡みつき喰らいつき、咀嚼し、そして焼き尽くす。修理屋〔フィクサー〕は、こう言っていた。《自由のための闘いの無い所には自由は無い。スピノザは何と言っているか?国家が人間性質にとってはいとわしいやり方で行動する場合には、その国を滅ぼす方が害悪が軽微ですむ。国家が間違っているならば、皇帝が間違っているならば、皇帝をかえなきゃいけない》。いまの穏やかさを獲得するまで、先人たちがどれほどの犠牲を払ったか。それを知ろうともしないやつが多すぎる。多すぎるよ。テレビのニュースで見たような映像、最新鋭空爆機のコクピット、パイロット、モニター、ロックオン、ミサイル発射、ターゲット破壊。そんな近代戦は、戦場のほんの一部。戦場は、人と人との殺し合い。一つの瓶の中に蠍と蠍を入れて蓋をして、殺し合いをするような場。どちらが死ぬか逃げ場所がない、戦いの場。カヌードスでもペリリューでも、殺した相手方の兵士のペニスをナイフで切り落とし、それを口に押し込み、目立つよう亡骸を木に吊したという。「地獄へ落ちやがれ。二度と生き返れないようにしてやった」という意味を込めて。命(ゾーイ)の再生を絶った、という見せしめとして。尊厳の破壊。これほど耐え難く、残酷なことがあるのか。《それがどういうことだったのか/知っていた人たちは/少ししか知らない人たちに/場所を譲らなければならない そして/少しよりももっと少ししか知らない人たちに/最後にはほとんど何も知らない人たちに》。シンボルスカは、この詩を名付けた、「終わりと始まり」と。ひたひたと迫り来る災厄と尊厳の破壊に抗う術を、手に入れることができるか? 終わりと始まりを受け入れ、先人から謙虚に学ぶ努力を怠ることなく生活できるか? 諦観を砕くビートを、絶え間なく繰り出すことができるか?したたかで老獪な支配者たちの脅嚇に屈せず、踊り続けることができるか?
君は、はたしてどうなんだ。 君は、はたしてどうなんだ。
一応、オレは命についてよくわかっている存在ということになっているからさ、最後にあることないこと言い散らしておくよ。恋人たちの懐に、優しい闇が訪れる。是非に及ばず。恋人たちよ、大いに踊りたまえ。大いに、愛し合いたまえ。ほんとうにたいせつなことは、「ことば」ごときにはならねぇよ。理由を求めて、言葉なんか信用する愚挙には陥るな。よくおぼえときやがれ。恋人たちを横目にこの曲を聴いていると、オレはイエーツの「ことば」を思い出すんだよね。《血に混濁した潮が解き放たれ、いたるところで/無垢の典礼が水に呑まれる。/最良の者たちがあらゆる信念を見失い、最悪の者らは/強烈な情熱に充ち満ちている》。詩人は、一つ目の世界大戦の後、束の間の和平が結ばれた年に、この詩を詠んだ。でも、それと時を同じくして、ファシズムが始動したんだ。二つ目の大戦が勃発し、徹底的な破壊と蛮行が行われ、結局のところ破滅で終わったよ。二十世紀は何の世紀だって言われてるか、知ってる? 人類による人類の大量殺戮の世紀、だってさ。いまでも懲りずに繰り返してるんだろ。いくら語っても足りないぜ。で、どうすんだよ? 野蛮な闇と柔らかなファシズムに、おまえはどう立ち向かう? 長い物には巻かれろ、という手もないわけではないけどさ。どうせだったら反逆してみなよ、無垢の儀式が沈み込む紅い月が浮かぶ海で。驕慢猛々しい野獣どもと対峙してみろよ、愛しい人を傍らに。柔らかなファシズムよりも、柔らかな刹那と同衾しなよ。おまえのファルスは、そのためだけにあるんだからさ。おまえたちなりに、あるべき世界を開いてみろよ。
すべては、移ろう。 人生は美しい。
*
太陽とともに天空への階梯を駆け昇って以来、彼女は星の下であり路の上でもある夜空で、わたしたちが暮らす世界を照らしてきた。銀河の星々も、路にいる人々も、常々「こっちに来いよ」と彼女を誘った。しかし、彼女は夜空で世界を照らし続けた。密林の語り部であるマスカリータによると、一匹のカマガリーニ(悪魔)は、こう言っていたそうだ。《太陽が落ちてしまったら、夜になる。しかし、月がある限り、夜は薄暗がりになるだけで、完全には夜にはならず、人々の暮らしが続いていく。だから、カシリ(月)を助けるべきではないだろうか? それがもっとも理に適ったことではないだろうか? 人々がそうすれば、月の光はもっと強い光を放ち、夜はそれほどの夜ではなくなり、歩くのに十分な薄明かりになる》。彼女は、闇のすべてを消し去ることはできない。だけど、わたしたちが闇夜を歩くのに十分な薄明かりはつくり出してきた。それで、世界は調和が保たれていた。でも、いつからだろう、わたしたちが嫉妬に狂うようになったのは。嫉妬が欲望を膨れさせ、野獣を生んでしまったのは。振り子が傾き、壊れてしまったのは。わたしたちが文明をつくり始めた頃、その担い手にとって、嫉妬は必要不可欠の心性だった。土器つくりの女の技とは、形の定まらぬ素材に働きかけ、それにある拘束を課し、素材に形を与えることだった。わたしたちの祖先である土器つくりが「やきもち焼き」だったからこそ、文明と文化が生まれた。
彼女は言った。わたしは夜空で、あなたたちの始原となった嫉妬と欲望を、もう一度照らし出す。あなたたちが目を背けようとも、再び陥穽にはまろうとも、容赦なく照らし出す。あなたたちが、裸の瞳と見渡す限りの花々を取り戻すまで。あるべき生を、もう一度形づくり始めるまで。壊れたビートで転がりはじめるまで。あなたたちの心の中の太陽が、そっと輝き出すまで。わたしにできることは、それくらいでしょうから。
(了)
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