ハートランドからの手紙#99
掲載時:97年2月
掲載場所:THIS 97年Vol.3
掲載タイトル:「フルーツ・プロジェクト」を終えて

長かった。これが「フルーツ・プロジェクト」を終えた僕の正直な感想だ。レコーディングの準備から、最高にイカしていた、あのツアーの最終公演、横浜でのクリスマス・イベントまで、18か月間、僕は「イイ奴」を演じていなければならなかった。レコード会社は景気が悪いせいで、イラついている。僕の稼ぎが悪いのかマネジメントからも敬遠されがち。どこに行っても「マーケティング」とやらの話で、肝心の「音楽」の話は聞こえてこない。いったいどうしたっていうんだろう?「大衆音楽なのだから売れる音楽こそがすべてなのだ。」そう、それは定石だ。しかし、頼むからその「定石」を僕に信じこませようとすることだけはやめてほしい。僕だって「ポップ・ミュージックの魔法」については、パンツを履く前からよくわかっている、のだから。

それは用意周到な計画から始まった。僕には新しいバンドが必要だった。仲間が集まるのにそれほど時間はかからなかった。「フルーツ・アルバム」でのレコーディング。腕利きのミュージシャンたちが集まってくれた。ドクター・キョン、佐橋、井上、小田原、明。初めてセッションをするのに、そうではないような気がしていた。僕はある日、コンソール・ルームの片隅で頭を振りつつ、直感した。「そう、彼らとロードに出るのだ!」。何か気の利いた名前が必要だった。バンドの名前を考えることほど難儀なことはない。その名前は一夜のうちに消え去ってしまうかもしれないし、もしかしたら歴史に刻まれることもあり得るのだ。真剣に考えてみたり、冗談を交えてみたり。結論は、ない。ちょうどそんなとき、自分で書き付けてあったメモ- 後で曲にしようと思っていた詩の断片、を見つけた。そこにはこう書かれていた。「新しい旅。境界線をボカす。フラグメントな影。放浪の冠。」加えて次々に言葉の断片が連なってゆく。「タオイズム、忘れられたあるいは放棄された夢、光の粒子、相変らずの渾沌」。それら一連の言葉が、まる僕を脅迫するかのように、ジグソーパズルの断片となって、至急に解決を迫ってくる。そして僕は解答を出した。「インターナショナル・ホーボー・キング」。そうだ。ちょっと長いけれど悪くはないだろう。僕はバンドのミュージシャンたちが見えない王冠を頭に被せている姿を想像してみた。少し微笑んだ。途端にその名前が近づいてきた。焦点は固定された。僕は、ほんの気まぐれで書きとめておいたメモの断片から、とても大きな啓示を受けた。こうしてバンド名が決まった。「インターナショナル・ホーボー・キング・バンド」。アルバム「フルーツ」のオープニング・ナンバーは、僕に似た誰かに救済を懇願する嘆きのバラードでもあるし、また、このバンドの始まりのファンファーレでもある。

一年間に二度の全国ツアー。「IHKツアー」については、既刊「フルーツ - スタジオ・デイズ」(パルコ出版)に、日誌の形態で掲載した。続く「フルーツ・ツアー」については、ツアーに同行した音楽評論家、能地祐子氏が、ルポルタージュの形態でまとめてくれた。今読み返してみると、いずれも表現に生々しさがにじむ。それでいい、と思う。日誌もルポルタージュも、その都度起こった出来事に対して、ある程度の感情の高まりを引きずりながら書きつけられれるものだ。観察の輪郭が細かい分、たぶん後で読み返したとき、忘れてはならない重要な事実が記されているにちがいないのだ。アルバム「フルーツ」を聴いてくれた方、いずれかのツアーに参加してくれたファンはもちろん、興味のある方たちにはぜひ、読んでいただきたい。

新しい世代のミュージシャンが集ってくれた、イベント「THIS!」、トリビュート・アルバム「BORDER」は、僕の喜びだった。彼らとの交流はかけがいのないものとなった。僕らは、それぞれに属する世代の持つ秘密のキーワードを交換しあった。もっと早くしておけばよかった。

ツアー中、僕は何度も大笑いをした。バンドの連中のユーモアのセンスは抜群だ。満足の笑い、怒りの笑い、慈しみの笑い、狂気の笑い。長いロードのなかで、バンドが僕にもたらしてくれたものは、「笑い」だった。それは力となった。僕が山の頂きの高さに困惑しているとき、そのまま平野を歩けと示唆してくれたのは彼らだった、僕のギターの弦が弱ったとき、弦の張り方を変えてみろと示唆してくれたのは彼らだった。このツアーで、僕はギターを変えた。これまで愛用してきた赤のフェンダー・ストラトキャスターは、ジャズ・マスターにとって代わった。ギターを担ぐ位置を変えた。へそにぶらさげるのではなく、胸に抱えるスタイルをとった。これまでの曲の編曲をすべて見直して、新たにこのバンド独自のサウンドを追及した。僕はリハーサル・スタジオで、ステージの上で、幾度となくある直感に身を預けていた。「音楽は力。音楽こそすべて」。今まで何度この言葉をつぶやいてきたか、わからない。時が流れ、わかっているつもりが、しかし、また確認するハメになる。ロビー・ロバートソンが言うように、「ロードは教室」なのだとしたら、僕は、まだいまだに卒業できないでいる落第生だ。

96年のクリスマス・イヴ。その夜、僕とバンドは、神奈川県横浜アリーナのステージに立っていた。インターナショナル・ホーボー・キング・バンドに加えて、オーケストラ指揮の井上鑑、セクストン・シスターズ、スカパラ・ホーンズが加わり、レコーディング・メンバーが全員揃った。僕とバンド、そして集まってくれたオーディエンスにとって、この夜が特別なものだということは、誰もが知っていた。長かったツアーの最終日。しかし、僕らは感傷的なフィナーレを演じるつもりはまったくなかった。ただ、クリスマスの日にふさわしい演奏をしたかった。いずれにしても僕らは現実に生きている。その現実とは、僕の目には、ある困難さがつきまとうものとして映る。誰かは言う。「エンタテイメントは、そんな現実を憂さを晴らすためにある」と。そうだろうな。だとしたら僕には何ができるだろう。僕はギターをぶらさげたただのにやけたエンタテーナーなのだろうか、それとも答えを出せないでいるひとりよがりの哲学犬なのだろうか。わからない。どうでもいいようなことのようにも思えるし、大事なことのようにも思える。

ツアーの最終日、もしこの夜に言葉を与えるとしたら、言葉にとってかえてそれを音楽で表してみたい。そんな気持だった。オーディエンスはホットだった。それにも増して、ミュージシャンたちはさらにホットだった。コンサートの終盤、ある曲の終わり際、僕は上を見上げた。すると天井につるしてあったシャンデリアがいっせいに美しい光を放った。数えきれないほどたくさんの小さな電球が、宇宙にさざめく惑星のように輝いていた。どこか遠く、オーディエンスの誰かが僕の名前を呼んでいる。僕の現実。彼や彼女たちの現実。ふたつの現実が重なったとき、「フルーツ・ツアー」最後の夜が終わった。

音楽ビジネスは思うほど楽なものではない。しかしそれがどうしたというのだ。現実が僕のイマジネーションをかき乱してくれるかぎり、僕は生き続ける。ヒット曲の分析やマーケティングの話は今度会ったとき、食事のついでにでもどうだろう?笑い話の種にはうってつけだろう。そう思わないかい?

僕は「音楽屋」である前に、「音楽家」でいたい。


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