『Coyote』はメビウスの輪
北原義幸
NHK-FM「サウンドストリート・元春レイディオ・ショー」1986年10月13日、ゲストDJに大滝詠一氏を迎えての佐野元春インタビューに、こんなエピソードがありました。今から21年前、ちょっとテープを巻き戻して聴いてみよう。
大滝:「ストレンジ・デイズ」というタイトルには特別な意味があるんですか?
元春:う~ん(笑)。僕のね、いとこが一緒にテレビを観てたんです。で、ニュース番組か何かでした。5歳なんです。その男の子が。それで、一緒に見ててニュースを観ていた男の子が、終わったあと、僕のほう振り向いて、「ヘンな時代だね」って、言った。
2007年7月11日、水曜日、現在。地下鉄の売店で、佐野元春のインタビュー記事を読みたいがために、50円を払って日本経済新聞の夕刊を手に入れた。
「豚カツ・干しシイタケ・ウナギかば焼き…中国産食品の価格上昇」の1面記事。ひっくり返して、元春の顔写真とインタビュー記事を貪るように読む。乗客はみなぐったりとした様子で、眠っている。少し、僕の顔に血の気が戻って来た。引き続いて22面と23面の社会欄を開く。いつも、新聞を開くのには勇気が必要だ。
「児童虐待の相談 最多 厚労省まとめ 昨年度3万7000件に」
「札幌山中に女性の遺体 息子は自殺、無理心中か」
慌てて次のページをめくって、
「イチローランニングHR 大リーグ球宴 史上初 3安打2打点の活躍」を、自分にいい聞かせるようにして黙読する。
ご覧のとおり、今日も「ヘンな時代」は続いている。目の前に立って吊革にぶら下がっている女性が、立ったまま眠っている。とても辛そうだ。彼女の膝当たりを突いて、座席に座るように勧める。
「どうも、すみません」
顔を赤くした彼女は、ほどなくして束の間の眠りの中に落ちていった。
海の向こうのイチロー選手、いつも僕のそばにいる佐野元春の音楽作品『Coyote』、そして、刷り立ての今日の日経新聞の夕刊記事。僕の心を支えているのは国民から徴収した税金や社会保険料をロクに運用できないようなアホな政治家どもではなく、僅かな、このニュースだけだった。トウモロコシ畑の農夫たちは、祈るような気持ちで夜も眠れない。九州地方では大雨による被害が甚大だとニュースは伝えている。異常気象、昔には考えられなかった奇病、疫病が世界中に蔓延している。獲ってはいけない動物を殺し、その肉を喰らい、死に至る病にかかる人類。紛争による、流民と貧困。戦争や企業活動による生態系の断絶と自然破壊。
2007年6月13日。佐野元春は『Coyote』とともに、再び、僕の目の前に姿を現した。今、言えることは、この作品がLPレコードでなくて良かったということ。新しくリリースされた、この佐野元春のアルバムが、CDで良かった。買ったばかりの元春の新譜が、レコード針で、すり減ってゆくのは悲しいことだからだ。色んな思いをめぐらせながら、僕は未だに何も書けないでいる。
波の音が聞こえて、気がつくと「黄金色の天使」。ラスト・ナンバーが始まっている。「評論」を、書こうと机に向かって、1ヶ月近くがまもなく無為に終わろうとしている。ここまで、おつきあい下さった方々には、大変申し訳ないことですが、僕はもう一度、このアルバム『Coyote』を最初から聴き始めようと思います。どうか、怒らないで、僕以外の、皆さんの冴えた評論をお読みになって下さい。
え? 君の言いたいことも、分からないでは、ないよ、って!?
そう、おっしゃって頂ければ何よりです。
だって…
毎日、家に帰って来て、我が家の『Coyote』と、夜がな酒を酌み交わし、今日一日あった、「ヘンな時代」のよもやま話を、互いに会話している。何か、一つでも、どんな小さなことでもいい。僕の目の前にいる君のことを笑かすか、そうでなければ自分以外の誰かを、ちょっとだけ、幸せな気持ちにできたらね、ということで、彼とは、気が合うのかも知れません。永遠に、そんな風にして結局のところ、僕には「評論」など、書けやしないだろう。
『Coyote』は、世界と僕をつなぐメビウスの輪。
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