いつもなにかが新しい
青澤隆明

 『MANIJU』をはじめて聴いた日のことは、いつまでも忘れられないだろう。不思議なアルバム・タイトルを知るだけで、あとはただ耳を澄まし、全曲を通して一気に聴いた。
 いくつかの言葉が、いや、いくつものフレーズが、たちまち脳裏に刻まれて、聴き進むうちに遠のくどころか、いろいろに絡み合っていった。直截なリリックの性質と、これまで以上の多様性と創意を鏤めたコヨーテ・バンドのサウンドが、少々風変わりだがポップによく馴染んでいる。つまりは、率直な言葉のもつ若さと、成熟したバンドアンサンブルと手の込んだアレンジによる醸成が、どこか不思議な取り合わせにも感じられた。結果としてはとても簡明に聴こえるけれど、その実、多様な音楽語彙を用いた構築が巧妙に施されている。言葉は鋭くスパイスを利かせつつも、曲の総体としては暖かく、親密な温度が柔和に保たれている。

 「そうさ、今すぐ災いを縫って/気休めのダンスに出かけよう」(M-1 白夜飛行)。こうして1曲目からリスナーは「大事な君と」という親しげな呼びかけを向けられる。しかも「気休めのダンス」という自嘲とも刹那的ともいえる身振りを伴って。あとでわかることだが、このオープニングトラック「白夜飛行」のリリックは、アルバムの終盤にきて「夜間飛行」に拡張され、つまりは曲どうしが対になって全体のストーリーを構成する。「目を開いて一歩前に前進」なんていう、やけに平明な言葉は、これまでの佐野元春の口調とはずいぶん趣が違っている。

 いつもなにかが新しい。佐野元春のニュー・アルバムは、その都度新たな叡智を蓄えて、揺れ動く時代に出航する。たとえば、最新アルバム『MANIJU』の詩の作法は、佐野元春長年のソングライティングが、いままではまず採ってこなかった、つまりは革新的な創意とウィットに充ちている。おそらくそれは本作のソングライティングの視点、つまり動的な、というよりはどこか否応なくパッシヴな主人公の視座から、必然的にもたらされた方法論でもあるだろう。熟練のロック詩人にして、やけに簡明でもある新しい言葉の身振り、それと多様な音楽語彙との熟達した組み合わせが、ひとひねりもふたひねりもあって、それだけ斬新に響く。

 「本物の聖者は/名前がない/見せかけの聖者は/名前しかない」(M-2 現実は見た目とは違う)。胸がすくほど、見事に気の利いたラインだ。ざっくり研がれて、整理されている。対句だけで全篇が構成されたタイトなリリック。懐かしい「99ブルース」や「すべては警告どおり」のエッジの利いたリフレインが、さらに禅的になって回帰してきたような切れ味である。かくして、オープニングの曲が示唆した「野蛮な今」の実態が、ウィットの向こうに、突き離した距離で描かれる。

 「彼女は僕のラヴ」、「彼女はいつも少しだけブレてる」(M-3 天空バイク)。ここでも言葉はティーンエイジャーの心境にすっと寄り添う。そして、次の曲では、ニューソウル風のグルーヴに乗って、「君はずっと耐えてきた」と、また音の方角が変えられる。メロウに歌われるはずのところ、「君」と「僕」、二人の世界に、「あの人」が暴力的に割り込んでくる。なにが起こっているんだ(What’s Going On)? そして、泣いて、やりきれなくて、「今はただ こんな夜/寄り添うことしかできないなんて」(M-4 悟りの涙)と歌われる。やむにやまれずパッシヴ、と先に記したのはこの最低限の守りの状態と、必要なぬくもりのことである。

 「あの人」はこの曲の後も、あちこちに顔を出して、君と僕の世界に災いを降らせてくる。ボブ・ディランへのオマージュふうのフォークロックでは、抑えたトーンの ”Everybody Must Get Stoned”を思わせながら、「あのひとがここに来てからすべてが変わってしまった」(M-6 朽ちたスズラン)と歌われる。だけど、“Don’t think twice”とシンガーは語りかける。ここで「言葉を巧みに変えて憎しみを煽るだろう」「あのひと」の影は、「いつだって悪いことを企んでいる」(M-10 夜間飛行)、「いったいあの人は何者なんだろう」(M-11 禅ビート)というように、霞むことなく後続曲にも引き継がれる。

 「朽ちたスズラン」という抒情的なタイトルを抱くこの曲は、スタイリッシュにプロテスト・フォークソングを模倣するだけに、アイロニーとパロディを混ぜ合わせているが、歌われている内容は、うつむいた小さな白い花のように寂しい。かつて友愛と連帯を歌い、世代を超えた共感を呼びかけてきた、佐野元春のソングライティングは、ここへきて「心が通じないひともいるんだよ」と嘆くように諭してみせるのだから。歌のなかでは、向こう側もこちら側もないはずだった、愛の喪失とレジスタンスの矛先以外には。しかし、この歌の光景のなかでは、はっきりとあちらとこちらが区分されている。もちろん、「月と専制君主」のような痛烈な異議申し立ては、折々にあった。だが、ここでは詠嘆と諦念が柔らかではあれ、はっきりと優勢である。

 「あの人」という言葉は、このアルバムを通じてさりげなく口にされているけれど、じつに驚くべきリリックである。画期的な展開と言ってもいい。佐野元春の曲のなかには、「彼」もいるし「奴」もいて、だがその人称代名詞には、つねになんらかの友愛やユーモアが含まれていた。だが、「あの人」の呼びかたにはずっと距離があって、つまりは指示対象がこちら側にはいない。あちら側とこちら側、つまり敵と味方に分割されるような、きっぱりと突き離したシニカルな発語は、これまでの佐野元春の作詩では意識して採られなかった方法だろう。

 もしかすると、これらの歌の情景に生きる主人公たちには、あるいは現在のリスナーにしてみれば、ただ「あの人」としか呼び得ない不気味な存在、あるいは巨大な影としてしか、その実態が捉え得ないものなのかも知れない。それは彼らの若さのゆえなのか、あまりにも不条理で理解ができないからなのか。ただ、「あの人」はこちら側には、「僕」と「君」の側には立っていない。それだけは確かだ。「あのひと」は、決して「僕」や「君」が与し得ない、巨大な力を押しつける何者かである。社会の現実において、私たちはそうした尊大な他者と理不尽に直面し続けるが、こうして大人が揶揄する「あの人」は、このアルバムの若い乗客には得体の知れない悪の権化であるのだろう。

 それに対するかのように、続いて「自由」が歌われる。「行きたい場所は自分で決めるさ」(M-7 新しい雨)と宣言され、「自由に唄う/思いのままに/どんな時代も/どんな場所でも」(M-8 蒼い鳥)と静かに口ずさまれて。「蒼い鳥」の短い間奏曲は、佐野元春初期の心優しいバラードを思わせるし、それは往年のヨーロッパ映画のシーンのような質感と懐かしい温度をもつものだが、そのリリックはこれ以上ないほどに簡潔で、剄い。

 いま間奏曲と言ったが、「蒼い鳥」は、本アルバムのここまでの若い主人公とは違う、一種の達観と諦念を帯びている。しかしそもそも、どうしてこの曲を、ハミングで口ずさまなければならないのか。このソングライターはいつだって、ふつうにそう歌ってきたのではなかったか。それを敢えて、内心の囀りとして、おどけた洒落っ気をもって打ち明けなくてはならないとしたら、それは表現の自由を脅かされ、侵略されることの危機がそれだけ色濃いということの証左だ。

 そこから、一転して、恋に落ちた少年の疾走がくる。「純愛(すみれ)」と名づけられたこの曲の、感情の速度とバースト感には、青春そのものを純化したような勢いがある。「ここでふたり自由になって」。一気に加速して、風景が広がる。何歳のリスナーにとっても、きらめくティーンエイジャーの気持ちのままに、この曲は込み上げる心を搔きむしるだろう。

 アルバム『MANIJU』きってのキラーチューンとも言えるこの曲の終盤へきて、くっきりと、しかし呟きのかたちをとって示されるのが、本作の核心を貫くひとつのテーマである。それは、「壊れた現実」と「自由への旋律」だ。「あの人」が荷担し加速させる前者に対して、「自由に唄う」「僕」や「君」、あるいはこの先で歌われる「イカレタ二人」が生きる「自由への旋律」。その2つのキータームが、ここでは「と(&)」ではなく「は(=)」で結ばれて、どこか予言者の宣告の趣をとって告げられるのである。

 そうしてみれば、先に少し触れたリリックとサウンドの一種のねじれもまた、意外な結びつきというだけではなく、等価に繋いで置かれたものなのかも知れない。このリリックで端的に明かされたように、いささか力業ともみられる「=」、つまりbe動詞が結ぶ直線性こそが、本作のソングライティングが強い意識で採ったひとつのアティテュードなのだと、私には思える。

 さて、これはいましがたブックレットをみてわかったことだが、2016年を通じてレコーディングされた本アルバムの12の収録曲で、最初に録音されたのがこの「純恋(すみれ)」で、その翌日が「天空バイク」。つまり、きわめつけのラヴ・ソングでレコーディングが始められたことになる。少なくとも、最終的にアルバムに収められた楽曲のなかでは。おしまいはちょうど11か月後に、「白夜飛行」と「夜間飛行」のカップリング。暑い夏のさなか、終戦の日に、タイトルトラックとなる「マニジュ」と「朽ちたスズラン」の重要な2曲が採られたことも、昨今の時勢ではどこか象徴的にみえてくる。

 こうして思いつくままに綴ってきたが、そんなことよりなにより、アルバム『MANIJU』の旋律も言葉も、手の込んだ創意も、一度聴くだけで、驚くほど鮮明に心に残る。意識的に平明な言葉が選ばれていたことだけが、そしてさまざまなスタイルが合わせ技の妙味で曲のスパイスを高めてきたことだけが、その要因ではないはずである。心を躍らせるのは、ポップの魔法と明日への活力だ。「心細いことばかりで 耐えきれないかもしれない 物語はまだ続いていく」(M-12 マニジュ)と「マニジュ」の詩人が語りかけるように。

 それにしても、『マニジュ』ってなんだろう? 摩尼珠? ならば、禍を払う浄化の宝珠という意味だろうか。それは涙? (悟りの?) 「もう心配ないよ」で結ばれるエンディング曲のリリックは、愛する気持ちを静かに歌う。もしかしてI Need You、いや Man needs you (Maniju)? ・・・まさかね。はっきりとはわからないのだけれど、なにかのまじないの言葉、大事なマジック・ワードであることさえ感じられれば、聴き手としては充分なのだろう。魔法の言葉こそは、私たちの護符である。説明を待つものではなく、心のうちに神秘のまま抱かれていることが大事なのだ。

「光の小旅行」は続いていく。そこには、嘆きも衝動も、憐憫も問いかけもある。災いと退屈の現実に対して、自由とスマイルの恋と真実がある。「やるせないことばかりで/悲しい気持ちを抑えきれない/それでもまだ夢を見てる」(M-12 マニジュ)