今を生きるための智慧が込められたアルバム
森 朋之

 本作「MANIJU」の制作において佐野元春は、若い都市生活者たちをイメージしていたという。1980年のデビューアルバム「BACK TO THE STREET」から現在に至るまで、佐野の作品のなかで“都市で暮らす人々”は重要なモチーフのひとつで在り続けている。彼ら、彼女たちが抱えている憂鬱、欲望、希望を、常に客観的な視点を持ちながら――抒情詩ではなく叙事詩であることが、彼のソングライティングの基本的なスタンスだと僕は思っている――ときにジャーナリスティックに、ときにリリカルに描き出すことで佐野は、数多くの名曲へと結びつけてきた。そこには当然、時代の雰囲気、社会の状況、街の在り方というものが反映される。「MANIJU」にも“2017年”が色濃く刻み込まれていることは言うまでもないだろう。

 毎日のように政治(または政治家)に関する数多くのニュースが報じられ、その真偽を検証する時間もなく、曖昧な憂いだけが心のなかに残る。「どうしてこんなことに? 何とかしなければ」という焦燥感に駆り立てられる一方、現実から目を逸らすには最適の、空虚な華やかさをまとったエンターテインメントが数多くひしめいている。こんな現状のなかで、自分という存在を保ち、心が求めるまま、進むべき道を選ぶことは至難の業だと言っていい。そして本作「MANIJU」には、そんな時代を生きるための智慧が数多く込められている。「現実は見た目とは違う」では“物事の本質を見極めろ”と警告を発し、「悟りの涙」では“君”の悲しみ、痛みに寄り添い、「新しい雨」では“大丈夫、好きなことをして楽しもう”と語りかける。そのすべてが“今”を生きざるを得ない我々の心にスッと入り込んでくるのだ。根底にあるのは怒りかもしれないし、憤りかもしれない。しかし本作において佐野は、それを前面に出すことはしていない。ソングライティングを研ぎ澄ませ、サウンドを洗練させ、美しく、穏やかなポップミュージックを通して、伝えるべき言葉を届ける。そう、真摯で切実なメッセージと優れたポップネスを軸にした有機的なコンストラクチャーこそが、本作の魅力なのだと思う。それはまるでマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」のようでもあり、ボブ・ディランの「時代は変わる」のようでもあり、ザ・ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のようでもある。冷徹にして優しい言葉、そして、優れて豊かなサウンドの共存という意味において。

 そして、30年以上に渡って佐野元春の音楽を聴いてきたひとりのファンとしての素朴な感想を言わせてもらうなら、“大人になった気分はどうだい?”“今のような社会が出現した責任の一端は、君にもあるんじゃないのか?”と問われているような感覚にもなった。「つまらない大人にはなりたくない」(「ガラスのジェネレーション」1981年)というフレーズを心に刻み、「いつかすべてを等しく感じられるまで 君と歩いていく」(「Come Shining」1984年) というラインを心のなかで何度も繰り返してきた自分にとって「MANIJU」は、いままでの生き方を問い直し、もっと主体的に社会にコミットすることを促されているようなアルバムでもあるのだ。真に優れたポップミュージックは、ひとりひとりのリスナーの人生に大きな影響を与え、個人の集合体である社会を動かす可能性を十分に秘めている。このアルバムを通して僕は、そんな当たり前のことを改めて実感させられたのだった。

 ザ・コヨーテ・バンドが生み出すアンサンブルの充実ぶり、“意味”と“ビート”を理想的なバランスで一体化させたリリック、リスナーひとりひとりに歌を手渡すようなボーカリゼーション、アルバムのコンセプトを見事に体現したアートワークなど、本作「MANIJU」で語るべきトピックは数多くある。この作品を手にした人たちと連絡を取り合い、いろいろなことを語り合いたいと、いまは強く思っている。