「受け手」を可能な限り高く見積もること。信頼し続けること。
宇野維正

 今、この国には「受け手」を見くびった言葉や表現が蔓延っている。政治家が発するスローガンやエクスキューズ、テレビやネットが垂れ流す「情報」は言うに及ばず、残念ながらエンターテインメントやアートの世界も「きっと君たちが好きなものはこんな感じで、君たちの理解力はこのくらいだろうから、わかりやすいように作っておいたよ」というものに溢れている。高いリテラシーを持つ者たちが、低いリテラシーを持つ者たちの目線に合わせている? いや、違う。2017年、我々の目の前に広がっているのは、大衆を見くびっていたつもりの「送り手」が、「受け手」からすっかり見くびられるようになってしまった、そんな惨状だ。

 佐野元春の表現について考える時、いつも頭をよぎるのは、「受け手」と「送り手」の信頼関係のことだ。長いキャリアを持つ音楽家とそのファンとの間に信頼関係があるのは、まぁ、当然といえば当然のことだろう(実際にそれを維持するのは困難なことではあるが)。しかし、佐野元春の信頼は、自分のファンだけでなく、常に未だ見ぬ「受け手」にも向けられてきた。自身と同世代、及び少し年下の世代という、佐野元春のアルバムとしては珍しく多くの曲で特定の「受け手」にフォーカスが当てられていた前作『BLOOD MOON』においても、佐野元春の歌声は「長年のファン」だけでなく、あくまでも「長年のファン、そしてその世代」に向かって放たれていた。

 今作『MANIJU』は、その前作『BLOOD MOON』、そして『COYOTE』と『ZOOEY』を合わせた、COYOTE BANDと共に生み出してきたこれまでの3つの作品を経た上での、新たな息吹とチャレンジに満ち溢れている。鍛え抜かれたバンド・アンサンブル、優雅なコード・プログレッション、そこに重ねられた多彩なアレンジや凝ったコーラス、そして卓越したサウンド・プロダクション(1曲目「白夜飛行」でベースが入ってきた瞬間の気持ちよさ!)。バンド・レコーディングを取り巻く環境やその技術の継承が危ぶまれているこの時代に、「これが録音芸術だ」とカウンターを打つかのような音のデザインと奥行き。『MANIJU』を聴いていると、1960年代、それまで簡素なセットでのツアーに明け暮れていたバンドたちが、レコーディング・スタジオに引きこもり、そこで数々の魔法を発見していった過程を追体験しているような気持ちになる。

 そんな豊かな経験と高度な技術の結晶である『MANIJU』の「天空バイク」で、「純恋(すみれ)」で、佐野元春は改めて、若者たちに歌いかけている。それは「『受け手』を見くびらない」どころの話ではない。「受け手」を理想的な存在として、可能な限り高く見積もること。思えば、佐野元春がこれまでずっとやってきたのは、そういうことだったのではないか。その想いは、時には想像以上の飛距離とスピードで通じ合い、時には通じ合わなかったこともあっただろう。それでも、佐野元春は信頼し続ける。未だ見ぬ「受け手」を。そして、「新しい世代(ニューエイジ)」を。