佐野さんへの手紙 〜『Maniju』とTHE COYOTE BANDと僕〜
西寺郷太(NONA REEVES)
佐野元春 &THE COYOTE BAND の新作アルバム『Maniju』、頂いた日から一ヶ月以上繰り返し聴かせてもらいました。佐野さんへの手紙というスタイルをとりながら、ネットで多くの方が読むことを前提に書いていますので、まさにパイオニアとして、この国で荒野を切り開かれてきた佐野さんにとっては「おいおい今更、そんな話かよ」と思われることばかり続くと思いますが、「なぜ僕がこれほどまでに佐野さんの作品に共鳴するのか」というテーマに対して真剣に向き合って、文章にしてみたいと思います。
さて、僕にとって作詞家として日本語のメロディやグルーヴへの乗せ方、意味の「深み」と一定の「軽さ」、鋭いキャッチーさをキープする感覚に関して、佐野さんに並ぶ先人はいません。日本のミュージシャンで一番「尊敬」している人は誰だ、と質問されたら即答で「佐野元春」と答えます。本当です(小松に聞いて下さい!)。
ただし、僕は仲間の堂島孝平君や、先輩の片寄明人さんのように少年期から佐野さんの音楽に夢中になって影響を受けてきた人間ではありません。個々のアルバムや楽曲などに詳しくはないですし、佐野さんの歩まれてきた道の凄みに気づいたのが「2000年以降」、自分がプロになって数年目の頃からでとても遅いです。熱心なファン、マニアの方々からすれば所謂「ニワカ」と否定されるかもしれません・・・。それでもなぜ、僕が遅ればせながら佐野さんに完全に心酔したのか・・・。実は他の日本人先輩ミュージシャンとは共有できない、意外な「ポイント」があった、ということに気がついたんです。
1973年生まれ、京都育ちで「長男」の僕にとって、佐野さんの1980年初めのデビューはほんの少しだけ早すぎました。僕より年下の(デビューは彼の方が早いので「兄さん」ですが)堂島孝平が、あれほど佐野さんが好きなのもお父さんとお兄さんの影響が強いと思います。その前に、僕は昔から堂島の年齢詐称を疑っているのですが(笑)。彼、あまりにも詳しすぎますから、絶対5歳くらい嘘ついていると思います(笑)。
僕は幼い頃から「ザ・ベストテン」などの歌番組が大好きな子供で、所謂「アイドル歌謡」には熱烈な興味を持っていました。その後、1983年の初夏あたりから、マイケル・ジャクソンの『スリラー』大ブームの伝播をきっかけに洋楽マニアになり、「FM STATION」などのFM雑誌を隅から隅まで読むようになりました。少し前のことですが、なぜあれほどまでに急速に世に鳴る素晴らしい音楽ほぼすべてにハマりまくった僕が、佐野さんの音楽に当時夢中にならなかったのか、不思議に思ったんです。その答えは、ちょうど1983年初夏から一年間、佐野さんが日本での活動を一旦休まれ渡米されて『VISITORS』を作られていた時期だった、そのタイミングにあったんです。
1984年5月に『VISITORS』発売。翌6月に帰国とwikipediaに書かれていたのを見た時、シビれました。1984年5月と言えば、プリンス&ザ・レヴォリューションが「ビートに抱かれて(When Doves Cry)」をリリース。6月にアルバム『パープル・レイン』発表。1984年初頭はマイケル・ジャクソンが『スリラー』で、アルバム最多売り上げギネス・ブック記録を塗り替え、黒人アーティストが冷遇されていると指摘され続けたグラミー賞で史上初の8部門を獲得。若き天才、両巨頭の台頭著しかった時代です。
そのふたりだけではありません。僕にとって、今振り返ってももっとも米国のビルボード・ヒットチャートに興奮し、楽しかったのが、まさに佐野さんが渡米された1983年5月からの一年なんです。そして、改めて驚くんです。すでにその当時、日本で確固たる「佐野元春ブランド」を完成させ絶大な人気を誇っていた佐野さんが、敢えて一旦リセットするためニューヨークに旅立たれた事実に・・・。まさに、英断。今のようにメールやネットのない時代に、ポップ・ミュージックの季節において何度目かの「青春」と呼べる魅惑的な果汁に満ちた時期のひとつを、佐野さんは逃さなかった。現地で絞りたてを味わった。その勘の鋭さ!それこそが、以降の佐野さんのキャリアの築き方、歩み方に大きな影響を与えているし、この時期10代だった COYOTE BAND のメンバーたち(メンバーではない僕にも)との異様なまでの共振の最大のポイントになっている。そう、思うんです。
ちなみに思い込み、感覚よりも面倒臭いけれど証拠を並べる、というのが僕のスタイルなので、1983年5月から1984年7月までの全米シングル・チャート首位獲得曲を一年間順番にあげさせてください。
「今夜はビート・イット」マイケル・ジャクソン(4/30〜3週)
「レッツ・ダンス」デヴィッド・ボウイ(5/21〜1週)
「フラッシュ・ダンス 〜ホワット・ア・フィーリング」アイリーン・キャラ(5/28〜6週)
「見つめていたい」ザ・ポリス(7/9〜8週)=1983年・年間ナンバーワン・ヒット=
「スウィート・ドリームス」ユーリズミックス(9/3〜1週)
「マニアック」マイケル・センベロ(9/10〜2週)
「あの娘にアタック」ビリー・ジョエル(9/24〜1週)
「愛のかげり」ボニー・タイラー(10/1〜4週)
「アイランド・イン・ザ・ストリーム」ケニー・ロジャース&ドリー・パートン(10/29〜2週)
「オールナイト・ロング」ライオネル・リッチー(11/12〜4週)
「セイ・セイ・セイ」ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン(12/10〜6週)
「ロンリー・ハート」YES(1/21〜2週)
「カーマは気まぐれ」カルチャー・クラブ(2/4〜3週)
「ジャンプ」ヴァン・ヘイレン(2/25〜5週)
「フット・ルース」ケニー・ロギンス(3/31〜3週)
「見つめてほしい」フィル・コリンズ(4/21〜3週)
「ハロー」ライオネル・リッチー(5/2〜2週)
「レッツ・ヒア・イット・フォー・ザ・ボーイ」デニース・ウィリアムス(5/26〜2週)
「タイム・アフター・タイム」シンディ・ローパー(6/9〜2週)
「ザ・リフレックス」デュラン・デュラン(6/23〜2週)
「ビートに抱かれて」プリンス&ザ・レヴォリューション(7/7〜5週)=1984年・年間ナンバーワン・ヒット=
どうだ!という感じの「オールスター楽曲」ですよね!嗚呼!この時期、ポップスが特に面白かったポイントは、やはり人種と国籍、ジャンルの壁を超えたことだと思うんです。ある種の偽物感、ゴッタ煮感といいますか。
とりわけカルチャー・クラブや、デュラン・デュラン、ポリス、ユーリズミックスなどの英国勢の躍進。ボニー・タイラーもウェールズ出身、フィル・コリンズ、YES、デヴィッド・ボウイら先輩組ももちろん英国。そして、絶頂を迎えたマイケル関連作には白人のエディ・ヴァン・ヘイレンやポール・マッカートニーがパートナーとして存在。「売れるために、マイケルは黒人音楽の魂を捨てた」と批判もされました。ヒップホップがオーバーグラウンドを完全に席巻するのは、1986年夏のRun-D.M.Cによるエアロスミスのサンプリング曲「ウォーク・ディス・ウェイ」の記録的ヒットの後。チャカ・カーンがプリンスの「フィール・フォー・ユー」をカバーし、グランド・マスター・メリー・メルが「シャカシャカ・シャカカーン!」とインパクトのあるラップを挿入し大ヒットしましたが、それも調べて見ると佐野さんが日本へ帰国後の1984年10月発売。佐野さんが、いかにポップスとロックとラップを融合させたのが早かったか(それも日本語で)が時系列で見ると、よくわかります。
面白いな、と思うのが、カントリーの大物でアメリカの国民的歌手ケニー・ロジャースがドリー・パートンとデュエットした「アイランド・イン・ザ・ストリーム」は、ご存知の通りオーストラリア育ちのイギリス人兄弟ビー・ジーズが提供した曲。アメリカで生まれた「カントリー」を、まったくアメリカ育ちでない異国人が作る。そもそも映画『サタデーナイト・フィーバー』でディスコ・ブーム最大のヒットを生み出したビー・ジーズですからね。もともとはフォーキーな歌を歌ってデビューしたのに!
何が本物か、何がオリジナルか、だけでなく、そのブレンドの仕方。勘違いやデフォルメされたイメージの伝言ゲームの中で生まれたイマジネーション。それこそが、ポップスの醍醐味だと本能的に若いリスナーは感じ取っていたと思うんです。佐野さんは、オーストラリア育ちのビー・ジーズがカントリーやディスコを書き、モータウン出身のマイケルがハードロックの雄、エディ・ヴァン・ヘイレンと叫び、パンクやゴス育ちのロンドン出身の女装シンガー、ボーイ・ジョージがモータウン・ルネッサンス曲を歌う、という流れを現地で浴びた。
数年前、元陸上選手の為末大さんが「悲しいかな、どんなに頑張っても日本で生まれ育った人がヒップホップをやるとどこか違和感がある」と発言し、大ブーイングを浴びましたが、ヒットチャートを見るだけで、人種や国籍で音楽の種類やジャンルを分けることの意味のなさが証明できますよね。
ただ当時佐野さんがなされた音楽的ギア・チェンジは、かなりラディカルな選択だったとは思いますが。
ロックン・ロールやソウル・ミュージック、さらに映画音楽やミュージカル音楽なども含む、大きく言えば「アメリカ」の流行音楽が今、我々が愛するポップスの保守本流であることに異論を挟む人はいないでしょう。ただ、米国の黒人音楽を心から愛したビートルズ、ローリング・ストーンズ、そして僕が特に大好きな1980年代のポップ・スターたち、前述のカルチャー・クラブをはじめ、ワム!、ブロウ・モンキーズ、スタイル・カウンシル、シンプリー・レッドなどの英国ブルー・アイド・ソウル勢が「異国人」として、その「ズレ」ゆえに永遠に愛される音楽を作ったこと。先述の「チャカ、チャカ」のラップも、ビー・ジーズをディスコ路線にしたのも、トルコ人プロデューサー、アリフ・マーディン。まさに「VISITOR」だから見つめる角度、気づき、乱反射がそこにある。
先ほどの為末さんの発言を何度も蒸し返すのも馬鹿馬鹿しいですが、佐野さんの熱情は、今回の『Maniju』を聴いても自分が「異文化」を愛した「日本人」であること、それだけに引き金が引かれ続けられている気がします。しかし、そのまた自分の生まれた「日本」という国のあり方についても、同じ痛みと深みで疑問を呈すことに注がれている、そう感じるんです。それでいて、それでいてですよ、すっきりとしたポップ!!!!
THE COYOTE BAND ファンのひとりとして、僕がグッときたのは収録曲の「新しい雨」で、
僕の世代、君の世代
とびっきりのその笑顔に
やられっぱなしなんだ
(「新しい雨」作詞・作曲:佐野元春)
と歌われたことです。勝手な想像ですが、佐野さんは先述のニューヨークでの暮らしを、まさに10代のような気持ちで過ごしたのではないでしょうか。そして、そこで受けた感動や衝撃を日本に帰ってきて『VISITORS』を含めて、必死に全身全霊で伝えようとした。しかし、当然のように日本で完全な形で理解してもらえることは難しかった。同世代のきらめく凄腕ミュージシャンたちとは、時に拮抗するパワー・バランス、ライバル関係もあったことだと思います(当然のことです)。それが、世代の違う THE COYOTE BAND との融合でようやく素直に、ピュアな愛情を分かち合えることが出来たのではないでしょうか。そもそも、THE COYOTE BAND のメンバーは僕にとっても20年近い音楽部の同志のようなもの。もちろん年長の深沼さん、圭さんは今も憧れのスターであることは間違いないのですが、それも含めて部室でぐーたら寝たり、くだらない音楽への文句を言ったり、ゲームをしたり、邪魔をしたり、という日々の中で年齢を超えた真の「友情」「信頼」が通底してそこにあります。だから、写真とか見てるとスタジオに混じりたくてしょうがないです!約10年前に、この最強メンバーを選び、そしてソロ名義でなく「バンド」としてこの集団で作品を作った佐野さんの感覚に、本当に驚くばかりです。趣味が合うなぁ、と・・・(笑)。最高ですもんね、このメンバー。そしてメンバーも佐野さんと音楽が作れて羨ましいです。
リード曲「純恋(すみれ)」を聴いた時、ふと気がつきました。佐野さんが「恋」について歌う時、その相手は「ポップ・ミュージックそのもの」なのだ、と。「ポップ・ミュージックに心奪われ、感動できる季節」「仲間達と『超、いいねーーー!』と分かち合える時間」を、佐野さんはずっとずっと追いかけ続けている、と・・・。
最後にちなみにひとつだけ。
今回、個人的に悲しかった歌詞がありました。
「現実は見た目とは違う」の一節です。
本物の聖者は口をふさがれ
見せかけの聖者がしゃべりまくる
(「現実は見た目とは違う」作詞・作曲:佐野元春)
佐野さんのライブの打ち上げに参加させてもらうと、いつも僕ばかりしゃべりまくってしまい、反省しています(笑)。僕のことじゃありませんように・・・。
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