50分に満たない時間の中で
大谷隆之

 励まされながら、同時に打ちのめされる。現実を見つめる視線の強さに魂を揺さぶられながらも、でも最後にはまた、未来に一歩踏み出す勇気を取り戻している。50分に満たない時間の中でそんな相反する感情を何度も経験しながら、この数週間ずっと、佐野元春 & THE COYOTE BANDの最新作『BLOOD MOON』を聴き続けている。

 打ちのめされるのはシンプルな言葉だけで綴られた12編の物語が、今僕たちが直面しているこの世界と怖ろしいほどシンクロしているから。それでいて励まされるのは、ときに聴き手を突き放すような辛辣なイメージも提示しながらも、バンドの音そのものが確実に希望を奏でているからだ。たとえばアルバムタイトルにもなっている「紅い月」。十代から佐野元春の音楽を聴きつづけてきた自分にとって、この曲の語り出しは誇張ではなく衝撃だった。

 愛とか自由について
 語り合ったあの頃
 時を重ねて
 私たちは大人になった

 君は少しだけ優しげな顔になって
 忘れることだけがとても上手になって

 空を見てごらん
 紅い月が浮かんでる
 夢は破れて
 すべてが壊れてしまった

(作詞・作曲:佐野元春「紅い月」より引用)

 描かれているのは、佐野元春とそのリスナーが大切に共有してきた何かが、今まさに踏みにじられ崩れようとしている風景だ。圧倒的な現実が目の前に立ち塞がり、人々は混乱のさなかにある。不気味な“リアリスト”らが跋扈し、愛とか自由、イノセントな夢について語り合う小さな声はもう何の役にも立たない。それでもまだ動けず、ただ茫然と立ち竦む僕たちの頭上で、真っ赤な血で染め抜いたような巨大な月が禍々しい光を放っている──。初めて聴いたとき、頭の中でそんな鮮烈な映像が一気に広がった。一国のトップが平然とウソを重ねて(僕はそう考えている)、寄って立つべき地面がグラリと揺らいだ2015年夏の日常と、この楽曲が差しだすイメージとは驚くほど重なり合わないだろうか?

 高度消費社会が加速していた1980年代半ば、佐野元春は街の上に浮かぶ月を「マシュマロ」に喩えて、「眠りにつく/あの専制君主の目を盗み/今が、チャンスだぜ」「思いのたけ/奴らの悪口を叩けよ/言葉に税はかからない」と、リスナーを鼓舞した(アルバム『カフェ・ボヘミア』収録の「月と専制君主」)。高度なメタファーと遊戯性にあふれたそのサウンドは、情報の海の中でも自分を見失うまいとする若いオーディエンスにとって、間違いなく1つの道しるべになっていたと思う。でも今ではすべてが変わってしまった。権力への悪口は柔らかく封じられ、取り繕った表現ばかりが溢れて、このままでは本当に言葉に税がかけられる日も遠くないとさえ思える。「紅い月」の歌詞は、専制君主の横暴と同じくらい(もしかしたらそれ以上に)そんな時代を許した僕らの無為と無関心も正確に射抜いてくる。

 ただし、もっと重要なのは、「君が夢にみていたぬくもりは/他の誰かのためのお伽噺だった」という決定的フレーズを持ったこの曲が、瑞々しいロックンロール・ナンバーとして成立している事実だ。心臓の鼓動を思わせるベースが黙々とミドルテンポをキープし、キレのあるドラムが躍動感を付け加える。2本のギターがソリッドなリフを刻み、その余白をキーボードが優しく包み込む。すべてのパートが寸分の隙もなく噛み合ったサウンドは、〈状況はとてつもなく厳しい。だからこそ、君は君のやり方で踊り続けるんだ〉とリスナーに語りかけているように思えてならない。

 もちろん「紅い月」だけではない。希望そのもののような晴れやかな演奏に乗せて、現状にコミットする決意を歌った1曲目の「境界線」。気持ちよく横揺れするラテンロックのグルーヴで、この格差社会をしたたかに生きるワイズな男を讃える「バイ・ザ・シー」。悪意と暴力で充ち満ちた残酷な世界を、このうえなく美しくゆったりしたメロディーで祝福する「新世界」。アフリカ西海岸〜カリブを思わせる力強いビートと簡潔な2コードの繰り返しで、どこまでも転がっていこうと誘惑する「私の太陽」──。どの曲も現実と激しく共振しながら、思わず踊り出してしまいそうな極上のダンスミュージックになっている。まさにその事実によって、立ち竦むリスナーたちの背中を優しく押そうとする。このように相反する要素を含んだまま、ロックンロールという自律した世界を創りあげているところに、『BLOOD MOON』というアルバムの凄さがあるのではないだろうか。

 もともとTHE COYOTE BANDは、2004年に発表された傑作アルバム『THE SUN』で盟友THE HOBO KING BANDとの熟練した音作りにひと段落つけた佐野元春が、まったく新しいソングライティングの方法論を求めて自分よりも若いミュージシャンたちと結成したバンドだ。2007年、最初のスタジオ盤となる『COYOTE』をリリースしたとき、佐野は制作の意図を「ある無名の男を主人公にした、架空の映画のサウンドトラックを作ってみたかった」と語っている。自分自身はカメラマンに徹し、目の前で起きていることを淡々と叙述するというストーリーテリング手法。そしてそこには、冒頭を飾る2曲「星の下 路の上」「荒地の何処かで」からも明らかなように、〈現代という荒地をサバイヴする者たちのサウンドトラック〉というクリアな目的意識が感じられた。おそらく東西の文学に通じた彼は、〈荒地〉というシンプルな言葉にT・S・エリオットからアレン・ギンズバーグなどのビート派の詩人、さらには日本の田村隆一や吉本隆明まで、現実と格闘し続けた先行者たちのイメージを織り込んでいたはずだ。そう考えるとTHE COYOTE BANDはスタート地点からすでに、進行形の世界と対峙するドキュメンタリー的な視点を内包していたとも言えるだろう。

 もちろん『COYOTE』以前にも佐野元春は、街角に生きるさまざまな若者たち(僕の大好きな表現でいうとキッズ)の優れたスケッチを数多く残している。はっぴいえんど以来、日本のロックシーンでは作り手の気持ちをストレートに歌う叙情詩が主流だったが、デビュー曲「アンジェリーナ」からずっと彼はストリートの叙景詩を作り続けてきた。その基本スタンスは変えることなく、よりアクチュアルな詩的世界を目指したのがTHE COYOTE BANDだと僕は理解している。いわばライティング設備の整った撮影所を飛び出し、小型の手持ちカメラで被写体に肉迫するように、佐野元春は新しい〈文体〉を手に入れた。そして、人間を人間たらしめている自尊感情の行方について生々しく歌った2013年のセカンドアルバム『ZOOEY』を経て、境界線を一歩踏み越え現実に迫った今回の『BLOOD MOON』がある。3枚のアルバムは1本の強い線でつながっている。

 そういえば昨年の秋、満員の渋谷公会堂で彼らのライブを観た。大小さまざまの会場でライブを重ねた、長いツアーの最終日。贅肉を削ぎ落とした骨太なグルーヴと、簡潔だけど実は緻密に考え抜かれたアレンジが見事に噛み合って、どの楽曲でも音が重たいカタマリになって客席にぶつかってくるようだった。『COYOTE』『ZOOEY』に収録された近年のレパートリーだけじゃない。たとえば「サムデイ」や「アンジェリーナ」など何千回と歌われてきた名曲も新たな息吹を吹き込まれ、瑞々しい輝きを放っている。この6人はまさに今、バンドとして大きなピークを迎えているんだ──脈打つビートに心と身体を揺さぶられながら、漠然とそんなことを考えていた。そして、あの日ライブで体験した分厚い音のカタマリが、今回の『BLOOD MOON』にそのまま封じ込められている。これは驚くべき達成じゃないか!

 とりわけ素晴らしいのは、バンドメンバー6人が織りなすポジショニングだ。すべての音があるべき場所に置かれて、互いを生かし合っている。楽曲の持つ魅力を最大限引き出すための、細かいテンポの設定も申し分ない。アンサンブルの精度が上がったからこそ、ラウドな曲であっても歌詞の1つひとつが耳にしっかり届く。どの曲を聴いても、平易だけど詩的なイメージが目の前にすっと広がる。そこにはまさに、10年以上にわたって活動してきたバンドのクリエイティブなピークが生々しく刻み込まれている。

 昨秋のツアーファイナルでは、実はもう1つ忘れられないシーンがあった。本編が終わってアンコール、コンサートが恒例のパーティータイムに入ってからのことだ。ゴキゲンな「悲しきRADIO」のコール&レスポンスの途中、佐野元春はさりげなく、ただし誰でも分かる明快なやり方で、きっちりと〈アンチヘイト〉のメッセージを織り込んでみせたのだ。多くのミュージシャンが面倒事を避けてあたりさわりのないMCに終始している昨今、この真っ当なアティチュードだけでも大したものじゃないかと、僕は思う。

 だが本当に驚いたのは、彼がショーアップされた雰囲気をまるで壊すことなく、あくまでロックンロールの表現形式で思いを表現しきった点だった。ビートを止めて思うところを述べたりはしない。ましてやオーディエンスに賛同を強いることもない(記憶ではヘイトという直接的な表現すら用いてなかったと思う)。しかし彼の歌うダンスナンバーからは、間違った現実に対しては自分なりの流儀でNOを突き付ける意志が、はっきりと伝わってきた。言葉ではなく、もちろんソリッドでゴキゲンな楽曲そのもので。

 佐野元春は、ロックンロールがロックンロールでしかないことを誰よりも深く知っている。キッズたちが楽しい時間を過ごすための気軽なパーティーミュージック。だがその一方で佐野元春は、ロックンロールという表現形式の可能性を、誰よりも深く信じている。シンプルな言葉で現実を射抜き、鼓動のようなビートで矛盾を矛盾のまま鳴らすことで、聴く人に踊り続ける勇気を与える音楽──。

 優れたロックのアルバムは、ときとして現実に拮抗しうる力を持つ。時代と激しく共振しつつもフィクションとしての自律性を保ち、それによって多くの聴き手を励まして、目の前に広がる荒地のような世界と向き合う力をくれる。まだ十代だった1980年代の半ば、僕はアルバム『VISITORS』との出会いを通じてそのことを学んだ。そして30年以上たった2015年の夏、『BLOOD MOON』という新しいアルバムから、もう一度あのときと同じ力を受け取っている。