『BLOOD MOON』が語りかけるもの
Kaoru.T
きのう、つきをみました。つきがかくれるのをみました。かくれたら、あかいつきになりました。
15年前に当時小学校の一年生だった娘が7月15日の日付けで書いた絵日記にあった文だ。見ていた月が隠れて紅い月になる。見えたままのことを彼女は書いただけなのだから、その文は彼女の真実には間違いない。それでも、月が隠れて紅い月になる、とは言わば彼女の頭の中の概念に過ぎず実際の天体の現象を書き表したものとは言えない。とは言っても、彼女は実際の現象を正確に書き記すつもりも術も無かったのだし自分の真実に忠実に、とても素直な言葉で書き表したまでのことだが。
現象、概念、個人個人の真実、何事にもそれぞれの関係性において常に隔たりや歪みが生じるものだと、その晩の紅い月は私に語りかける。
2015年夏、私は『BLOOD MOON』を手にした。
本当に佐野元春は夏が好きなのだなと思わせるような清涼感のあるソリッドの効いたオープニングで始まる《境界線》。その歌詞の中に使われた〈オチ〉といういわゆる話芸や芝居でも使われる"落ち"。〈選んだ道に花を飾って〉というラインも歌舞伎や相撲の花道に通づるものがあって。これらの和的な発想の表現がこれまでの楽曲で使われたのは初めてではないかなと私はふと思った。確かにここのところ落語にも傾倒されているしインタヴューなどでもご自身が江戸っ子であることを繰り返し発言されているので納得と言えば納得である。が、私が知り得る限りずっと欧米的というかcosmopolitan的な空気感を常に纏っているような方であったので、この江戸っ子気質の再認識と思われる動きはここ最近に表に現れた顕著な変化のひとつなのだと受け止めている。何にせよ、この英国的な王道のポップなサウンドに乗せるのに、佐野さんの普段着的など真ん中の江戸っ子気質的な言葉がこっそりと歌詞に混ぜ込まれたことに何か意図があるのかどうかはご本人のみぞ知る、なのだが。
アルバム12曲中11曲の英語の副題の中で唯一仏語の副題の一曲、Mon Soleil と名付けられた《私の太陽》はそのアフロな土着的な様相の強いビートやグルーヴからも、一昨年に放映された〈ビートの原点を探す旅〉での撮影での紀行での終着地であったセネガルでの佐野元春を思い起させる。帰らずの扉にも立ってグリオとその長のドゥドゥと交わった時の熱さがこの曲の中にもあるように感じる。この《私の太陽》では、言葉がビートを、メロディーがストーリーをと反転して奏でているようなところもあって、聴き手の私は単に頭の理解ではなく曲全体から醸し出されるグルーヴに任せて、解放された身体全部で聴いてはじめてすべてを受け止めることが出来る、という存在の曲のように感じた。鼓動、血、記憶。生きることと音楽とが密になる時間。少し話は逸れてしまうが、朝に近所の公園を掃除したりもするという最近のインタヴューを目にした。どちらかというと面白い話として受け止められる傾向が見受けられるこの話だが、私は、生きること、記憶、暮らし、仕事、音楽、自らの在る場所や土地、というすべての根に血を通わせて束ねることの重要性を〈ビートの原点を探す旅〉で訪れた先々で強く感じた結果の行動のうちのひとつが、先の朝の公園掃除なのではないかと勝手に推測している。そんなこんなで、ゆかり無さげなご近所の公園掃除の話と《私の太陽》は私の中で朧げにではあるが一本の線で繋がっている。
私の好きなガリヴァー旅行記(ジョナサン・スウィフト著)を想起させてくれる曲がある。《新世界の夜》だ。美しく流れるサウンドと冷静な視点、対話の形式によって静かに語られる曲である。その曲を何度も聴いた先にはこの世界を冷静に見つめ続けることの大切さを痛感する自分が居る、というような言わば良質な寓話のような楽曲のように感じる。もしこの良質な寓話に何か挿絵があるとするならば、StormStudios に依頼した、この『BLOOD MOON』のジャケットデザインでの挿絵の他にはないだろうと私は思う。もしかするとこの《新世界の夜》も先述のニューヨークからセネガルまでの旅による産物で、その佐野元春旅行記の最終章のような作品なのかもしれないと脳裏をかすめもするが、これも全くの私の想像の内でしかない。
旅と言えば、《空港待合室》もある。この曲はフジロック出演からニューヨークに渡るまでご自身が着ていたジップアップの重量のあるハードなレザージャケットのようなロックンロールだ。先日この曲を生の演奏で聴くことが出来たが素晴らしくカッコよかった。曲もコヨーテバンドの演奏も最高に最高にカッコよかった。というか、ロックンロールのカッコいい要素がギターにもドラムスにもベースにもキーボードにも満載過ぎるだろう!そこはビートとグルーヴの洪水だった。そして〈誰もがまだ 旅の途中〉と歌い〈笑うにはまだ早すぎる〉とクールに締める。完璧なロックンロールで感嘆しか出て来ない。この曲はこれからも、これから何年経ってもライヴでガンっと演り続けて欲しい。誰も彼も皆がまだ旅の途中であるから最高にカッコいいロックンロールがまだまだ必要なのだ。
最高にカッコいいロックンロールが《空港待合室》であるならば、佐野元春がずっとこれまでも生み出し続けて来た最良のロックンロールの現在が《紅い月》なのだと私は思う。この曲では派手さを感じさせる様なものは殆ど何も用いられてはいないのだが、佐野元春をファクターとした喜怒哀楽の素のようなものが、その音やそのビートに、丁寧にとても細やかに絶妙な加減で練りこまれている。佐野元春の声で語られる情景やストーリーとザ・コヨーテバンドの演奏とが見事に一体化して見せてくれる世界感の高まりはこのアルバムならではの体験だ。まさしく最良のロックンロールとしか言えない一曲だ。
空に浮かぶ紅い月には幾つもの姿があって。いつもの月明かりが地球の影に隠れていく様、天体としての月の様、大気の塵が赤みを帯びて月に映る様。それに紅い月を見つめる数多の視点と概念が加わる。同じ世界に生きて行く上でも幾つものニュースがあって、それぞれの地でそれぞれの違う視点で、生きている人たち、死と隣り合わせの人たちが居て。身近に引き寄せてみても現在はまさに変革の時代の最中、願った未来とは違う様々な動きと、かつての希望と現在の毎日と、あらゆるところで生じた隔たりはどれもこれも埋めることが出来ないままでいる。このような現実を私はこの佐野元春のニューアルバム『BLOOD MOON』とともに再認識している。
〈世界は歪んだ卵〉とコヨーテ三部作の一作目で歌われた歪みはあいにく今も健在の世の中である。だからといって内省的に篭るだけでは生きていく足しにはならない。
2015年夏、佐野元春ニューアルバム『BLOOD MOON』の12の曲から繰り返し繰り出すダンサブルなビートやメッセージで、"この世界が内包している隔たりや歪みさえも、グルーヴに変換して生きていくエネルギーの糧にしてみてどうだい?" と、この『BLOOD MOON』は、今の私にそう語りかける。
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