柔らかなオーディオ・ジャーナリズム
渡辺 亨普段から僕は、音楽を空気に触れさせて聴くことを習慣にしている。特に最初は必ずヘッドホンではなく、大きなスピーカーを通して音楽を聴く。このようにして聴いた『自由の岸辺』は、最初から気持ちよく、何度繰り返して聴いても、その感覚は変わらない。なぜならスピーカーを通して柔らかい空気が伝わってきて、その空気が心の柔らかい部分に触れるから。
『自由の岸辺』のサウンドは、余計な角がなく、適度に丸みを帯びている。また、軽快なラテン・ロックやレゲエ調の曲もあれば、アコースティックなバンド・サウンドともに爽やかな涼風のようなコーラスが聞こえてくる曲もある。だからこそこのアルバムは、聴き手に余計な緊張を強いることもなければ、いたずらに刺激したり、威圧することもない。たとえ大きな音量で繰り返して聴いても、耳が疲れない。もちろん、ただ聴き流せばいいといった類のアルバムではないけれど、「グッドタイムス&バッドタイムス」では佐野元春自身がレゲエのリズムに乗って口笛を吹いているのだから、聴き手も自然とリラックスした気分になる。『自由の岸辺』のCDを受け取ってから数週間になるが、初めて聴いたときから、僕はとりわけサウンドの質感とアルバム全体の空気感に惹かれ続けている。
このサウンドの質感や空気感といった点も含めて、『自由の岸辺』と関連づけたくなるアルバムがある。それは、メロディ・ガルドーの『カレンシー・オブ・マン〜出逢いの記憶(Currency of Man)』(2015)というアルバムだ。
メロディ・ガルドーは、1985年にフィラデルフィアに生まれた女性シンガー・ソングライター。ただし、近年の彼女は、パリ郊外を中心にリスボンなどで暮らし、ヨーロッパに軸足を置いて活動している。物質主義や人種差別がまかり通っているアメリカ合衆国での生活を嫌って、ヨーロッパで生活しているのだ。といっても、ガルドーは現実から目をそらしているわけではなく、それどころか、むしろ直視している。その証拠に、『カレンシー・オブ・マン』には、権力者や拝金主義を批判した曲もあるし、「プリーチャー・マン」にいたっては現実に起こった事件 ── 白人女性に口笛を吹いた疑いで激しいリンチを受けて殺害されたエミット・ハリス(1941-1955)というアフリカン・アメリカンの少年のことを題材とした曲だ。このアルバムにおけるガルドーは、“オーディオ・ジャーナリズム”を標榜している。つまり歌でジャーナリズムを実践しているのだが、メルドーは決して声を荒げていない。彼女自身はさまざまな“痛み”を抱えつつも、歌声は聴き手の心の柔らかい部分にやさしく触れてくれているようで、自然と癒され、安堵感を覚える。ちなみに『カレンシー・オブ・マン』はアナログ・テープで、しかも国際基準の440hzではなく、432hzのチューニングでレコーディングされている。こうしたこともあって、苦い味がする曲が並んでいるにもかかわらず、サウンドの質感と空気感は柔らかい。
『カレンシー・オブ・マン』が“影”だとすれば、『自由の岸辺』は“陽”と言ってもいいくらいにメロディ・ガルドーと佐野元春の作風は異なっている。がしかし、硬直化していないオーディオ・ジャーナリズムであるという点で、この2枚のアルバムは近しいと感じる。
『自由の岸辺』に収められているのは、いずれも過去に発表されてきた曲。よって『自由の岸辺』は、アップデートされたオーディオ・ジャーナリズムということになる。ただし、最初から普遍性や予見性を備えていなければ、いくら工夫を凝らしてアップデートしても、本当の意味でのオーディオ・ジャーナリズムにはならない。今から四半世紀前に発表された「最新マシンを手にした子供達」のニュー・ヴァージョンが圧倒的なアクチュアリティを獲得しているのは、そもそもオリジナル・ヴァージョンが普遍性と予見性を兼ね備えているからに他ならない。
オリジナル・ヴァージョンと比べて、楽器編成やリズムが大きく異なる曲がある。アレンジだけではなく、歌詞の一部が変えられている曲もあれば、タイトルからして違う曲もある。言うまでもなく、佐野元春のヴォーカルも、オリジナル・ヴァージョンとは別物だ。そして冒頭で触れたように、サウンドの質感や空気感がまったく違う。これは佐野元春の名曲を、本人がアップデートしたカヴァー・アルバムというレベルではない。わざわざ謳ってはいないけれど、『自由の岸辺』はまさしく“RECOMPOSED”のアルバム。“RECOMPOSED”された、柔らかなオーディオ・ジャーナリズムである。