ハートランドからの手紙#135
掲載時:2001年11月
掲載場所:角川出版書籍「非戦」用テクスト
掲載タイトル:'Compassion'. きわめてマトモなヒューマニズム探求、と「anti war(反戦)」を逡巡するひとびとについて

僕は1956年に生まれた。僕が属している世代では過去にいくどとなく世界紛争があった。十代の頃を思いだせばベトナム戦争があった。「anti war(反戦)」という言葉がそのまま生きていた。僕の周りには音楽や詩があった。60年代から70 年代にかけてのロック・ミュージック。ユースの中にある娯楽の音楽の中に「anti war (反戦)」の意識が満ちていた。そこにボヘミアン的な楽天的な雰囲気があったとしても、表現自体はきわめてマトモなヒューマニズム探求の結果として結実していた。

そうした「anti war (反戦)」ステートメントの発信地は、サンフランシスコ、バークリーだった。米国の中でも歴史的に最もリベラルな動きが強い地域だと思う。10月の半ば、米カリフォルニア州のバークリー市議会が、テロとともに米国政府のアフガニスタン空爆を非難する決議を賛成多数で採択した、というニュースを聞いた。空爆支持が圧倒的な米国で、地方の議会がこれに明確に反対する姿勢を示した例は少ないだろう。しかし首をかしげたのは、そのバークリー市議会に非難が殺到しているという点だ。

米国が今はそうしたムードにあるのだと人に聞かされても、どうにも不可解きわまりない。「こんなことを言うと反米的と思われて叱られるかもしれない」という無意識が、言論にも、アートにも、日常にも影を落としている。それはきっと息苦しいことに違いない。

僕は米国の友人に尋ねる。
報復を支持する高いパーセントにカウントされた人々は、「新しい戦争だ」というレトリックとともに、テレビの画面越しにブッシュ大統領がよどみないスピーチを終えた瞬間のあの自信に満ちた演技に、一時的なメディア麻酔をかけられているのか。

僕は米国の友人に尋ねる。
僕らは抑鬱と無力感、無関心に耐えられるほど強くなったというのか。差別、飢餓、貧困、迫害、暴力、希望を奪われた人々について、目をつぶることができるほど賢くなったというのか。

'Compassion'. きわめてマトモなヒューマニズム探求、が、はじかれている。

2001年に米国で起こった事件、その後の不幸な事態に向かいあって、僕のモノサシに少しばかり誤差が生じた。このアンソロジーには、「anti war (反戦)」ではなく「非戦」という言葉が採用された。なるほど、と僕は納得している。

僕は、金持ちや権力者が常にそうでない人達を利用して、自分の有利なように世界を動かすシステムや人間精神のありかたに「非」を投げたい。

戦争・テロを正当化するようなイデオロギーに「非」を投げたい。

僕の内にある抑鬱と無力感、無関心に「非」を投げたい。

武器商人に「非」。

ブッシュ大統領に、タリバン・グループに「非」。

アフガニスタンはすでに破壊されている。僕はこれ以上の殺戮に「非」を投げたい。

このいざこざで誰も、傷つけても、傷ついてもいけない。

この出来事が新しい平和な世界の礎となるよう願わざるを得ない。


01.11.5 佐野元春


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