「月と専制君主」クロスレビュー

いま歌うべき曲で、過去と現在を繋ぎ未来へ進める 今井智子

 奇しくも本作のリリース直前に、ご存知のように中東で政変が起こった。その原動力になったのがフェイスブックだったという。そんなニュースを見ていると「月と専制君主」の歌い出しを、重ねたくなる。専制君主の眼を盗んで思いのたけ悪口を叩け、という一節だ。この曲は86年にパリを訪れていた際に書いたものだそうで、当時は商用インターネットも始まっていなかった。まさか悪口とは言わないまでも民衆の叫びが、フェイスブックを通じて世界中を駆け巡るとは誰も想像しなかっただろう。なのに、今この歌詞はゾクリとするほど現実を映しているように思えてしまう。まさに「川は流れ すべてはくり返す」のだ。ポップ・ミュージック、時にソングライターの意図を越えて意味を持つ。

『カフェ・ボヘミア』に収録されている「月と専制君主」のオリジナル・テイクは、あの時代らしいオリエンタリズムが鏤められているが、今回のレコーディングでは穏やかなアコースティック・ギターを中心にしたアレンジになった。達観したように落ち着いた歌声が、歌詞をしっかりと届けてくる。悠久のルールで天空を動き続ける月と、自らのルールで支配しようとする専制君主。だがボーイズとガールズは、自分たちのルールで歩いて行くのだろう。この曲が表題曲となったのは、次の時代への示唆なのだろうか。本作で取り上げられている10曲は、先程も書いたように、ソングライターの意図を越えて意味を持つようになった、あるいは書下ろした時より広い意味を持たせたい曲なのではなかろうか。その上でアルバム・タイトルを『月と専制君主』にしたのは、何か大きな意味があるように思えてならない。これはセルフ・カヴァーと一言で片付けるには、あまりに想像をかき立てる作品である。

「専制君主」という重々しい言葉が選ばれたのは、佐野元春が86年のパリにいたことが少なからず影響しているに違いない。まだベルリンも壁で東西に分けられていて、東欧からの脱出劇も起こっていなかった。今とは違ったかたちでの政治的緊張も高く、この年パリではテロも頻発していた。その当時に書かれた「都市のハックルベリーフィンたちへ」と題された詩に、「あらゆる専制君主 ── Leaderを信じない」との一節がある。リーダーを専制君主とするのは少々無理があるが、高圧的な指導者は専制君主めいて見えることを、佐野はダイレクトに訴えたかったのだろう。無自覚に従うのではなく自らの価値観で判断しろ、と。それは時代を超えるメッセージとして、今ふたたび響かせるべきものだ。

 けれども声高に主張しようと言うものではない。自分を押し付けるのではなく、聴き手に自分で姿勢や思いをチョイスしようと促している。音楽を通じて自分の視点や価値観を伝えたるのは、ソングライターなら自然な事でもある。佐野元春は、音楽とそういうふうに接して来た世代だ。その事をもう一度喚起するのも、このセルフ・カヴァーの動機だったのではなかろうか。

 本作の主題は「『君』の不在」だそうだ。『君』とは誰なのか。もういない人に捧げた「日曜の朝の憂鬱」もあるけれど、誰ということではなく漠然とした欠落なのかとも思う。年月が経ち年齢を重ねていくと、様々な去来がある。出会いと別れが折り重なって、人生が織り上げられて行く。もう会えない人が増え、戻れない過去も積み重なって行く。それはどうしようもないことで、どう折り合いをつけていくか、それぞれが模索しながら進むしかない。

 いわゆる代表曲を収録した『ソウル・ボーイへの伝言』はスナップショットのように、その時その時の記憶を呼び起こす。「アンジェリーナ」に始まり「君が気高い記憶なら」に至る27年が走馬灯のように巡り、時間の流れが俯瞰出来る。若々しい歌声や前のめり気味の演奏に少しノスタルジーを感じたり、同時にエヴァーグリーンな曲の魅力を再発見したりする。ベスト盤とはそういうものだろう。もちろんそこに明快なメッセージは存在するし、今も心を揺さぶられる事に変わりはない。けれども、そこで留まっていられないのは言うまでもなく、次の一歩を佐野は踏み出した。

 80年代にフレッシュな気持ちで書き上げ磨いた曲を、今の自分に引き寄せたアレンジで歌い直すことで、かつての自分の影が曲から薄れて行く。すると曲はノスタルジーに引っ張られることなく伸びやかに、新しい装いをまとう。その必要がない曲もあるだろうし、もっと別な時期に手を加える方がいい曲もあるだろう。今それが可能で必然な10曲が選ばれたということだ。穏やかな歌と演奏が、それを示している。

 カントリー・テイストもあった「ジュジュ」は、スマートなモータウン風に装いを変えた。元春クラシックスとも言える「ヤング・ブラッズ」は、大人びたラテン・スタイルに。キーワードとも言える「鋼鉄のような智慧 輝き続ける自由」が、時代を超えて訴えかけるものであることを改めて感じさせる。野心的なアレンジだった「クエスチョンズ」も落ち着いた演奏に変わったことで、言葉を慎重に届けてくる。かつては「さよならレヴォリューション」と革命に別れを告げたものだが、より個人的で強靭な改革を意識した歌になった。歌詞も言い換えているのが「日曜の朝の憂鬱」。英語の歌詞に慣れてしまった耳には少々違和感も覚えるが、英語から日本語にする事で、よりリアリティのある歌になっているとも言える。愁いを帯びた顔が浮かぶようだ。一方「彼女が自由になる時」は、ラヴ・サイケデリコのKUMIが参加する事で、想像もしなかった表情を得た。また、寂寞とした演奏だった「君がいなければ」が暖かみのあるサウンドになっているのも印象深い。そしてリズムさえワルツに変わった「レインガール」は、このアルバムが未来に向かって開かれている事を示唆している。ボーナストラックの「すべてうまくはいかなくても」は、背中をもう一押しする曲だ。

 私は、このように今の自分に引き付けて歌っている佐野元春の声を聴いて、ちょっと安堵もした。21世紀になってからの数年、ステージで歌う彼の声に正直なところ試行錯誤や迷いを感じていたからだ。同世代の身としては他人事でなく、彼がどう進んで行くのか気になっていた。だから『COYOTE』を発表した時には、頼もしく思えたものだ。そして、顔ぶれは最も信頼すべき面々と、今歌うべき曲をレコーディングした本作は、過去と現在を繋ぎ未来へと進める作品として、注目すべきものである。そして、これを糧に新曲が生まれる事を夢見ている。