「月と専制君主」クロスレビュー

動き出していく言葉たち。輝き始める音楽たち。 小尾 隆

『月と専制君主』というアルバム表題がいいなあ、とまずは思った。月というロマンティックで普遍的な存在に対して、不気味で邪悪なイメージがある専制君主という言葉。そんな相反する要素をメタファーのように結び付けていくところに、佐野元春という詩人の天賦の才があると思う。月に関しては初期の歌に登場していた向こう見ずなカップルたちが大人になった姿を伝える近年の「月夜を往け」を思い起こしてもいいし、専制君主については奇しくもこの原稿を書いている時点でエジプトを追われつつあるムバラク大統領の圧政を連想してもいいだろう。「月と専制君主」のオリジナル・ヴァージョンを初めて耳にしたのはもう20年以上も昔のことだが、鋭角的かつ重厚だった89年版に対して、今回再録音されたニュー・ヴァージョンは、アコースティックかつソウルフルで柔らかい響きに包まれている。そのためか"歩いてゆこう"という聞き手たちへの呼びかけは、以前よりも優しく親しげだ。

 アルバムの全曲が過去の作品のリメイク、いわゆるセルフ・カヴァーとなった『月と専制君主』は、そのような発見に満たされた"新作"といっていいだろう。比較的新しい曲でも初めて世に出たのは11年前の「クエッチョンズ」であり、最も古いナンバーを探せば27年も前の「日曜の朝の憂鬱」となるが、佐野本人にとっても今の気持ち、現在の声で過去の自分の歌に再び向き合いたい、リアレンジしてみたいと思うのは極めて自然な欲求であったに違いない。古い歌に新しい息吹を与えるといった表現はいささか陳腐だとしても、彼はその行為にけっして臆することはなかった。最近行われた幾つかのインタヴューのなかで佐野は本作に関して、「最初は気楽にやってみようと思っていたのですが、途中からどんどん作業にのめり込んでいきました」との旨を語っている。その過程とは取りも直さず、彼が歌の意味を再発見しながら、改めてその歌の核心へと踏み込んでいった時間に他ならなかっただろう。そのようにして佐野元春はかつての歌を手元で温め直す。聞き手たちが馴染んだ曲を再発見する。そうしたサークル(円循)を経ながら歌が再び光を取り戻し、河口へと辿り着いていく。そうした"気付き"こそが『月と専制君主』という作品集の太い生命線ではないだろうか。互いにやり過ごしてきた歳月や、重ねていった試練を振り返ればなおさらのことだ。

 変化していった声に関していえば、佐野は多くのヴェテラン・ヴォーカリストと同じように戸惑った時期もあったようだが、近年やっと今の自分の声と歌い方に自信を持てるようになったと率直に語っている。それを何より証明するのが『The Sun』に『Coyote』といった傑作アルバムであることは言うまでもあるまい。年輪を感じさせるビター・スウィートなヴォーカルと思索的な方向性を深めた楽曲との拮抗。世紀が変わってからの佐野元春の新たな魅力とはそのようなものだが、その2枚の延長線上にこの『月と専制君主』を位置付けてみれば、視界はよりくっきりと晴れ渡っていくのではないだろうか。そう、21世紀という荒野をこの作品とともに"歩いてゆこう"。

 ご存じのように、ラヴ・ソングの文体を纏いながら歌に重層的な広がりを持たせる作風は、佐野元春というソングライターの大きな特徴のひとつ。そうした意味ではこのアルバムが「ジュジュ」に始まり、「レインガール」で幕を閉じることは、とても興味深い連鎖である。両者とも一見他愛ないアバウト・ア・ガール・ソングであり、ティーンエイジ・ロックンロールの体裁を保っているものの、前者の男の子は世界が静かに朽ちていくのを見つめながら"君がいない"と大切な何かの不在を嘆いているし、後者の青年はレインガールと踊ることを夢見ながら"同じ言葉を繰り返している愚かなひとたち"(政治家であれ宗教家であれ)を観察しているといった具合なのだ。スキッフル・ビートからモータウン・サウンドの黄金律へとリフレッシュされた「ジュジュ」。ファストなポール・マッカートニーといった風合いから寛いだワルツへとスロー・ダウンされた「レインガール」。どちらも"大人になった"ぼくたちにぐっと寄り添い、微笑みかけてくれるような仕上がりといえる。ちなみに「月と専制君主」を含めたこれら3曲のブラン・ニュー・アレンジは、2010年の秋に行われたコヨーテ・バンドとのクラブ・サーキットでも披露されたが、裏メロを見事に拾い上げた「ジュジュ」のコーラスや、ツアー終盤には各楽器のソロ・パートまで加えられた「レインガール」の響きが実に新鮮だったことを、ぜひ付記しておきたい。

 数多い元春クラシックスから比較的地味なナンバーが選ばれているのも本作の傾向といえるだろうが、「クエスチョンズ」「彼女が自由に踊るとき」そして「C'mon」がセレクトされたことには驚かされた。いずれも佐野の周りに不穏な空気が立ち込めていた時期の作品であり、彼のキャリアのなかでは必ずしも高く評価されてきたとは言い難いアルバム『Time Out!』(90年)と『Stones And Eggs』(99年)からの選曲だが、今回の新たなレコーディングによって、歌われていることの精度がいささかも損なわれていないことが逆に証明されたようなものだ。歌詞を拾ってみれば、ぼくたちはいつも部屋の壁際に追いつめられているし、この世界が今日もたそがれていくのを眺めているだけなのだ。希望が込められた「彼女が自由に踊るとき」でさえ、そこに彷徨っているのは不自由でうまく踊れないといった現実の気配である。3曲ともにオリジナルでのニュー・ウェイヴ的なエッジの立ったサウンドとは対を成すように、テンポを落とし言葉を噛み締めるようなニュアンスが醸し出されている。歳月を味方に付けたといった印象も間違いではあるまい。

 さて、音楽面でのクライマックスは何といっても「ヤングブラッズ」だろう。近年では「観覧車の夜」を思わせるような大胆なラテン・グルーヴに導かれた重心の低い演奏がとにかく圧巻であり、鋼のようなWisdom、輝き続けるFreedomというリフレインはついに永遠のものとなった。これは些細なことかもしれないが、同曲のオリジナル・ヴァージョンが同時代のスタイル・カウンシルとの類似を意地悪く指摘(不思議なことにそういうことをあげつらう人たちに限って、佐野がどういう言葉を選び取り、何をどう届けようとしているのかに関心を示さないのだ)されたことを思えば、まさに借りを返したと言わんばかりの力強い仕上がりだ。それでも佐野は音楽の継承が相互影響によって為されてきたことを熟知している音楽家である。今回もホーン・アレンジがスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「エヴリディ・ピープル」に触発された旨を記すことを忘れず、ポップ音楽への切れ目のない献身を見事に表明しているのだ。69年に「エヴリディ・ピープル」が歌われたように、2011年には新たな「ヤングブラッズ」が奏でられ、同じように心の守護や人々の繋がりを訴えかける。素敵じゃないか!

 佐野らしい詩情と世界への考察は「夏草の誘い」「日曜の朝の憂鬱」「君がいなければ」でも遺憾なく発揮されている。ここら辺の選曲は、やはり最もファンの胸にすっと降りてくるような気がする。そして聞き手はやがて発見する。昔も今も佐野が一貫して"君"に語りかけていることを。彼は今でもときどきステージで思い出したようにハーモニカを吹く。先に少し触れた2010年秋のツアーでも、「サムディ」でハーモニカを吹き、ときに言葉以上の気持ちを伝えていたが、今回の「日曜の朝の憂鬱」でのハーモニカもまた感動を呼ぶことだろう。

 ボブ・ディランであれ、ルー・リードであれ、ブルース・スプリングスティーンであれ、キャリアを積んだミュージシャン/パフォーマーにとって過去のレパートリーとどう向き合っていくかは大きな課題であるが、佐野もまたそうした領域に足を踏み入れてきたかと思えば、ある種の感慨も湧く。どうか思い起こして欲しい。彼が長いキャリアの節目節目でヴァージョンの改編を大胆にも行ってきたことを。何よりもザ・ハートランドとの熱演がライヴの記憶のなかで焼き付いている「ガラスのジェネレーション」や「きみを探している」を、あえてザ・ホーボー・キング・バンドとともに再録音するなどのチャレンジングは、自らの肖像が錆び付いてしまわないための迂回であり決意だったのだ。そうした意味では今回のセルフ・カヴァー集も、けっして奇をてらったものではないことに思い至るはずである。そう、ロック音楽とは思い出という壁に張り付いている名詞ではなく、いつでも新しい季節に向かって動き出していくための動詞なのだから。

 レコーディング・メンバーについても書いておこう。ベイシックな固定メンバーは井上富雄、古田たかし、長田進、Dr.kyOnというもうすっかりお馴染みの人たちだ。ザ・ホーボー・キング・バンドから佐橋佳幸が参加していない点については、彼が奏でるギターの優しい音色や鳴りが好きな方には残念かもしれないが、ザ・ハートランド時代を支えた長田進のアグレッシヴなギターを久しぶりに聞ける喜びはけっして少なくない。あの黙示録的な「欲望」のイントロダクションから、今回の「クエッチョンズ」や「C'mon」まで、長田独特のギター語法は今日も健在だ。この4人による編成がライヴの場で最初に実現したのは、2010年3月に行われたアニヴァーサリーの第一弾"アンジェリーナの日"でのことだったが、佐野自身はこのバンド編成を、「ハートランドとホーボー・キング・バンドの合体なんだ」と簡潔に説明する。いずれにせよ、キャリアの長さ故にこうした贅沢な人選も可能なのだろう。

"がんばれベアーズ"にも喩えられた若く勇敢だったザ・ハートランド。成熟したテイストとともに柔らかいサウンドスケープを描き出していくザ・ホーボー・キング・バンド。そして最近では一世代若いコヨーテ・バンドを率いながら、あえて粗い目のザクザクとしたオルタナティヴ・ロックに挑戦する佐野元春。そうした側面から彼の旅を振り返ると、"いつもバンドとともに"といった姿勢がくっきりと立ち上がってくる。一緒になって腕を磨き、喜びも悲しみもバンドとともに分け合ってきた彼らの姿は、ぼくに友情とか信頼といった懐かしい言葉を思い起こさせる。

 プロ・トゥールズ一台あれば簡単に音が作れてしまう今の環境にあっても、佐野はバンドとともにスタジオで練習し、手振り身振りを交えながら以心伝心となるまで音を固め、録音テイクを重ねていく。演奏がうねりを見せ始めるまでをしっかりと見届ける。たとえランニング・コストが掛かろうとも、アナログの質感を大切にしたエンジニアを立てることで、彫りの深い音を響かせるのである。

 イメージの飛躍に溢れた歌詞の素晴らしさは勿論のこと、かくの如く音の建築士としてもけっして妥協することなく歩み続けてきたのが佐野元春という人だ。『月と専制君主』には埃を被った部屋の奥から古い歌を探し出し、新しい時代に向けてもう一度解き放とうとする気持ちが満ち溢れている。その息吹をどうか感じ取っていただきたい。