「月と専制君主」クロスレビュー

衝動、律動、そして世界 原田高裕

 文化とは何かを追求する人文社会科学におけるやり方のひとつに、「強い光とソフトフォーカス(Harsh Light, Soft Focus)」というものがある。狭く絞り照らすことで対象の細部にくい込んでいく「強い光」と、全景や背景を含めた全体に目配りする「ソフトフォーカス」とを綯い交ぜにしながら、被写体である社会に迫っていく手法だ。今回は『月と専制君主』というアルバムを被写体としてそれを準用してみるが、ホーリスティックなソフトフォーカスの視点は寄稿パートが咀嚼してくれている。よって、ファン/リスナーの私は、強い光の視点をもって『月と専制君主』を聴いてみての感想を語ってみたい。

 光のあて方にも、いろいろな切り口があるだろう。詩・詞(ことば)、サウンド、作者自身による発言を鑑みた作品としての位置づけ…などなど。今回私は、アルバムの中の“とある一曲”にレンズを絞る、という算段を講じてみる。全体から個体ひとつひとつを俯瞰するのではなく、個体から遡り全体を掴んでみたい、そんな試みだ。おざなりなやり方であることは、十分承知している。よって以下は「ひとりのリスナーの愚行」として、いくつかの文を連ねてみたい。

 じゃあ、オマエはどの曲を選ぶのかって? そんなの、「日曜の朝の憂鬱」に決まっている。

*

 アルバム『月と専制君主』の八曲目に「日曜の朝の憂鬱」は在る。なにはさておき、各自それぞれのリズムで、できれば声に出して歌詞を朗読いただきたい。

汚れたベンチ
ストロベリーワイン
道端のサンディペーパー
小鳥たちもさびしそうさ
君がいなければ

冷たいニュース
小さな娘
食べかけのアップルパイ
まるでセンチメンタルな
プラネタリウムさ
君がいなければ

ときどき
何もかもがリアルじゃなく見えてしまう時
ときどき
凍てついた心を君にかくしてしまうのさ
なぜだろう
なぜだろう

窓辺の天使
Four letter words
寄りそう恋人たち
やがてこの街に冬が訪れる
君がいなくても

ときどき
夜が訪れて街の灯りがともる頃
ときどき
うつむいた心を君にかくしてしまうのさ
なぜだろう
なぜだろう

ときどき
すべてが何となく無意味に見えてしまう時
ときどき
凍てついた心を君にかくしてしまうのさ
なぜだろう
なぜだろう

汚れたベンチ
ストロベリーワイン
道端のサンディペーパー

世界はこのまま何も変わらない
君がいなければ
世界はこのまま何も変わらない
君がいなければ...

どうだ、おい、とてもいい詩だと思わないか。「これにて感想終了」でいいと、本気で思っている。まずはこの点を、はじめに強調しておきたい。

 創り手=佐野元春によると、『月と専制君主』のテーマは「『君』の不在」であるという。その「『君』の不在」が率直に描かれているのが「日曜の朝の憂鬱」だろう。ほかの曲を聴いてみると、薄氷を歩く切迫感はあるが、まだ君とのつながりはどこかで保たれているようだ。しかし、冬の入り口に公園でたたずむ主人公にとって、君の存在はすでに遙か遠い場所にある(のっけからモータウンサウンドでウキウキ軽快に始まる「ジュジュ」も、実は相当に深刻なのだが)。

 そして、この曲のどこが特筆に値するかというと、その普遍性を挙げたい。「日曜の朝の憂鬱」は、「サンデー・モーニング・ブルー」のタイトルで、1984年『ヴィジターズ』で発表された。だいたい三十年前の曲であり、しかも異国の地におけるスケッチが基調として登場する。にもかかわらず、2011年の今、この地でしっかりと鳴り響いている事実。それは、この曲が持つ普遍性に起因することにほかならない。

 私は、この曲を近くの公園でよくプレイバックしている。アイテムが少々違うだけで(ストロベリーワインじゃなくてワンカップの日本酒の空瓶、サンディペーパーじゃなくてクシャクシャになったスポーツ新聞、四文字言葉も彼の地ではfuckといった文字列だろうが、こっちではヤリチン/ヤリマンの類…といった些末な違いにすぎない)、歌が放つ世界観、メッセージの純度や説得力は、変わっていないどころか逆に格段に増しているようさえ思う。「ユニバーサル」の尺度でいうと、十曲中随一だと断言したい。だから、私は公園のスズメたちと一緒に口ずさむことができる。セルフカバーの意義が、ここにある。

 セルフカバーにあたって、創り手は歌詞及びサウンドに必要不可欠な範囲での調整を行っている。詞(ことば)のリファインにしても、「日曜の朝の憂鬱」では入念に処置が施されている。まずタイトルからして「日曜の朝の憂鬱」である。『月と専制君主』の収録曲が発表された時、私はこれをセルフカバーアルバムの中にある例外=新曲だと思っていた。渋谷のロックバーだったか、お値打ち中華料理店だったかは忘れたが、酔っていた私は仲間のひとりに尋ねた。

「日曜の朝の憂鬱」って、どんな新曲なんでしょうねぇ?
違いますよ、「サンデー・モーニング・ブルー」でしょう

 佐野元春ファンを自称していた身としては断罪モノの不覚であったが、このとき軽く戦慄が走ったことを憶えている。その数ヶ月後にアルバム全体を聴き終わった時も、そして何回か聴き通した今でも、私にとって『月と専制君主』におけるヘソは「日曜の朝の憂鬱」であることに揺らぎはない。

 佐野元春タイムラインでいうと、私はカフェ・ボヘミアの世代にあたり、「サンデー・モーニング・ブルー」が入った『ヴィジターズ』は、友達の友達にダビングしてもらったカセットテープをもらい、それこそワカメ(完全死語)になるまで何回も聴き直したものだ。その頃の空気感や臭いは、厳然と質量を持った塊として残っているのだが、なにせ二十年前以上のことだ、それはどこか頭の片隅に追いやられていた。しかし、この空気感・臭いが、大脳中枢ど真ん中に忽然と甦り、濃密な存在感で居座りだした瞬間がある。それは、「日曜の朝の憂鬱」の間奏におけるギターの音色を聴いた時だ(ギターのみならずマンドリンやハーモニカも加わっていて、間奏にしてはかなり豪華)。レコーディング・ドキュメントDVDを見てみると、それはオベイションのギターではないか。二十数年前、楽器に詳しいこれまた友達の友達に、元春の写真を見せながら、確かにこう尋ねた。

この模様が入ったギターって、スゴいの?
オベイションのエレアコだからな!

「オベイションというギターメーカーの、エレクトリック・アコースティックギターだからな」という内容を正確に理解するまで、その後数日を要したのはいうまでもない。佐野元春はよく我々に問いかける、「音楽は世代を越える。それを証明したいんだ」と。ギターの音ひとつでリスナーはいとも簡単に、それも瞬時に時空を越えて、様々な時代にアクセスできる。尋常ではない「音の魔力」を改めて思い知ったのも、「日曜の朝の憂鬱」であった。

 このように、「日曜の朝の憂鬱」は、アルバム『月と専制君主』に内包されているテーマ、普遍性、セルフカバーにおけるリファイン、音楽の威力…などをクッキリと浮かび上がらせる一曲に仕上がっている。それでは最後に、『月と専制君主』全体が我々に語りかけていることについて、「日曜の朝の憂鬱」の歌詞を参照しながら踏み込んでみたい。注目したいのは、「心を君にかくしてしまうのさ」というリフレインと、「世界」という詞(ことば)だ。

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 「神も父も不在の荒地。孤独を抱えて彷徨う恋人たちに捧げられた10曲」。制作者側は、『月と専制君主』をこのように位置づけた。

 その昔、神や父を透して見えたもの・理解できるものがあった。それは、「世界」だ。神や父といった権威・規範・安心の根拠・頼るよすが(多分に思い込みに支配されていただろうが)によって、世界ははじめて“了解可能”となっていた。それがある日突然、神も父も、我々を置き去りにしてどこかに行ってしまった。ひょっとしたら、それは、私たち自身が望んだことなのかもしれない。その反作用として、従来型の縁はことごとく消え去り、これまで経験したことのない荒地や孤独の景色が、恐るべき速度で顕れ膨れ拡がっている(それに対する良い悪いについて、ここで述べるつもりはない)。

 そんな我らに残された世界への回路、それこそが「君」という存在なのだろう。世界を“了解可能”とするためには、「君」が必要なのだ。しかし、なぜだろう、そんな君にときどき心をかくしてしまう。

ときどき
何もかもがリアルじゃなく見えてしまう時
すべてが何となく無意味に見えてしまう時

ときどき
凍てついた心を君にかくしてしまうのさ
うつむいた心を君にかくしてしまうのさ

なぜだろう
なぜだろう

 「君」という“オペレーター”(操作媒体。よって、「君」を特定の異性=人間に限定する必要は無いだろう)を透し、世界を知りたいと望む。君と世界を分かちあいたいと願う。でも、何かに衝き動かされて心をかくしてしまう。君がいない。君を追い求める衝動。そして---。この理知を超越したところにある「制御できない揺れ動き」が、確固として存在すること。衝動の律動が君と私との間に在ること、それこそが世界をかたちづくっているということ。「日曜の朝の憂鬱」は、そして『月と専制君主』は、そんなことを語りかけているように私は思うのだ。

やがてこの街に冬が訪れる
君がいなくても

世界はこのまま何も変わらない
君がいなければ...

***

いま、私の周りは薄暗い。しかし、『月と専制君主』を聴くには、これくらいの薄暗さがよく似合う。月は映え、君主が茫然自失という名の眠りに陥ったことで、いままで隠されてきたこと、いままで気づけなかったこと、いままで見知らぬふりをしてきたことが、よく見えるようになった。

地震酔いは続く。

平成二十三年四月、花や若葉がいつものように息吹く季節に