06 | 名曲「サムデイ」の誕生
1982 -1983



 最近のステージでは佐野元春自身が「種(タネ)」という言葉を遣って紹介している「サムデイ」は1982年に生まれた。

 佐野の作品の中でもひときわ崇高な輝きを放っている「サムデイ」。リリース時、1982年当時のヒットチャートで80位にも満たなかったこの曲が時を越えてこれほど多くの人々に愛され続けているのも不思議な気がする。

 80年にデビューした佐野は、デビュー作とそれに続く2作目の制作にあたってプロデューサーを起用している。この初期2作は、作品性は高く評価されたものの商業的な成功には届かなかった。

 3作目にあたるアルバム『SOMEDAY』の制作に着手した佐野はひそかに堅い決心をした。このアルバムがヒットしなければ音楽で身を立てることは諦めよう。そうであれば、制作のすべての責任を自分自身でまっとうしよう。そう考えた佐野はアルバムのプロデュースを自ら請けおうことに決める。

 レコーディング技術においては、ちょうど時期を同じくして参加した、大滝詠一プロデュース作品『ナイアガラ・トライアングルVol.2』の影響が大きかった。大滝詠一の『ロング・バケーション』レコーディングの現場を見学した佐野は、すぐさまスタジオに戻り、シングル曲「サムデイ」のプリ・レコーディングを開始する。「サムデイ」に聞くことのできるフィル・スペクターばりのウォール・オブ・サウンドは、大滝詠一から学んだものだった。

 一方「サムデイ」はサウンドだけでなく、描かれた世界観もそれまでの国内ポップス曲にはない斬新さに満ちていた。

 テクノ・ポップやモノトーン・ファッションが流行し、あらゆるメディアで人間的な手ざわりが否定されていた時代。佐野は敢えて「まごころ」という“死語”を提出し、「こんなサウンドの中で、こんな流れや考え方の中で、こんな風に“まごころ”という言葉を使ったら、君はどう感じる?」(『時代をノックする音』 山下柚実 著)と同時代のオーディエンスに疑問を投げかけた。

 それは「一つ一つの言葉に、強い意味やパッションを求めるのはダサイ」(同上)という当時の風潮に対する大胆な挑戦であり、ソングライターとしての佐野にとっては意欲的な実験だった。しかもそれは能天気な“希望”の歌ではなく“絶望”を前提とした“祈り”の歌であり、都市のノイズと“ウォール・オブ・サウンド”にインスパイアされた混沌としたオーケストレーションが施されていた。

 都市の子供たちのための新しい時代のシンフォニー。「サムデイ」は、新たな時代を先導するパワフルな可能性の種子だった。

(吉原聖洋)



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