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Text : 池田聡子
佐野元春が、ニューヨークに滞在していた1983年という年は、アメリカ、特にニューヨークで、ストリート・カルチャーとしてヒップホップ・カルチャーが弾けようとしていた時期だった。
とはいえ、その頃はまだアメリカでさえも、ヒップホップは非常に都市型のローカルなカルチャーでしかなかった。だから、ニューヨークという巨大な都市に蒔かれたヒップホップの種が飛び散り、アメリカ全土さらには世界中のミュージック・シーンの中心になろうとは、当時ほとんどの人間は考えてはいなかった。
けれども、最先端の文化が混在する街、ニューヨークで、さらにその先をいくカルチャーが花開こうとしていたのだ。その熱気の渦の中、佐野元春はニューヨークにいた。ヒップホップが、音楽に対して常に新しい姿勢で臨み続ける佐野元春の興味を引きつけたのは、自然な成りゆきであったに違いない。そして、ヒップホップ・ミュージックをニューヨーク滞在中に急速に吸収した佐野元春は、日本帰国第1弾のアルバムでその要素を遺憾なく発揮することになる。
ヒップホップが音楽の形として新鮮なものであったのも確かだが、ヒップホップという音楽の形に佐野元春が魅力を感じた理由は別のところにあるのではないだろうか。デビュー当時から、佐野元春の早口な日本語の詩は音符の中からはみ出し、さらには彼自身の語り口がリズムを刻んでいて、そのままヒップホップのリズムにオーヴァーラップしていく感じを今でも受ける。佐野元春のスピード、リズム、イディオムがヒップホップのもつそれとシンクロしたと言ってもいいだろう。
そういったことを考え合わせると、佐野元春がヒップホップ・ミュージックを取り入れ、日本ではもっとも早い段階でそれを形にしたのは至って自然な流れだったのではないだろうか。
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